と怒った。
「クラブ禁止令が出たからって、いらつくなよ」
ニコチャンは軽く受け流す。
「ひとのこと言えるんですか。ニコチン禁断症状に喘いでるくせに」
「まあまあ、明日も六時から朝練だから。喧嘩もほどほどに」
温厚な神童が割って入った。「ところでニコチャン先輩。この針金のオブジェ、もらっ
てもいいですか?」
「いいけど、どうすんだ?」
「ちょっと思いついたことがあって」
神童は針金人形を一 みし、ジャージのポケットに入れた。二階の住人たちが階段を
上っていく。足音とドアの閉まる音がやんで、竹青荘に静けさが戻った。
「本当にハイジに協力するつもりですか」
戸口に立っていたユキが、小声でニコチャンに話しかけた。
「悪いか。おまえだって、やる気まんまんだろ」
「俺はいいんですよ。単位だって取れてるし、司法試験にも受かった。でもあんたは、
ちゃんと進級しないと、もうあとがない」
ニコチャンは大学に入るまでも入ってからも、まわり道ばかりしてきた。そのあいだ
に、興味のあることにはたいてい手を出してきたおかげで、金を稼ぐ手段はいろいろあっ
た。大学を卒業できなくても、会社に就職できなくても、自分一人で生きていくことは充
分可能だ。だが、ユキが心配してくれていることはわかったので、
「ありがとよ」
と言った。ユキは照れくさそうに、ちょっと肩をすくめた。
「なあ、ユキ」
自分の部屋へ戻ろうと背を向けたユキに、ニコチャンは声をかけた。「いい一年にしよ
うぜ」
竹青荘でともに過ごす、最後の年を。
ユキは黙って扉の向こうに消え、ニコチャンは喫煙への激しい欲求を抱えながら、また
パソコン画面をにらみはじめた。
ソフト制作はやっぱり進まず、針金人形だけがいたずらに生産されていった。
清瀬が作った四月の練習メニューは、レベルによって三つに分けられていた。走と清瀬
は、ハードなメニュー。王子はゆるやかなメニュー。ほかのメンバーはその中間、という
位置づけだ。
メニューはどのレベルにおいても、まずは走ることに体を馴染ませ、スピードと持久力
を同時に少しずつアップさせることに、重点が置かれていた。飽きがこないよう、走る場
所にも変化がつけてある。ランナーの心理を把握し、それぞれの実力差を考えつくした内
容だ。走は改めて、ハイジさんはただものじゃない、と思った。
これだけの練習メニューを組みたてられるのだから、きっと清瀬は、相当実力のある選
手のはずだ。膝を故障するまえの清瀬が、どんな走りを見せていたのかを知りたかった。
スピードランナーの存在に、無関心ではいられない。走ははじめて、清瀬とちゃんと陸上
の話をしてみたいと感じた。
だが、竹青荘の住人たちは、ほとんどが陸上の素人だ。練習メニューから清瀬の実力を
推測することなど、もちろんできない。配られた練習表を、困惑したように眺めるばかり
だ。
口火を切ったのは、好奇心旺盛なジョージだった。
「ねえ、ハイジさん。『C.C』ってなに?」
「クロカン、クロスカントリーの略だ。トラックでもロードでもなく、自然のなかを走る
ことだよ。俺たちは原っぱを使う」
「原っぱって、アオタケから二キロは離れてるよ。わざわざあそこまで行くの?」
「アスファルトよりも土のほうが、脚に負担がかからない。起伏にも富んでいるし、気分
転換にもなって、ちょうどいいだろう」
「じゃ、『C.C 2・5k×6』ってもしかして……」
と、今度はジョータがおそるおそる尋ねる。
「原っぱで距離を測って、一周二・五キロになるようなルートを考えた。どういうルートか
は、あとで教える。そこを六周しろってことだ」
「全部で十五キロも走るの?」
王子がげんなりした顔になった。
「まだまだ少ないぐらいだが、最初だからね」
清瀬は無慈悲である。「走なんて、八周だぞ」
ムサが挙手した。
「『ペース走』というのは、なんですか?」
「設定されたペースどおりに走ることだ。体調や走力を見て、そのつど指示する」
清瀬は練習表から顔を上げ、住人たちに説明がちゃんと浸透しているかどうかを確認し
た。ムサが、「大丈夫です。いままでのところ、わからないところはありません」と笑顔
で請けあう。
「これらは主に持久力、つまりスタミナをつけることが目的の練習だ。あまり無理せず、
着実に距離を走りきることを考えてくれ。練習前後のジョッグも、苦しくなるほどのペー
スで走っちゃいけない。何度も言うようだけど、体をほぐし、とにかく長く走りつづけ
て、走距離をのばしていくことが重要なんだ」
「ジョッグっていうのは、ジョギングのことですよね」
神童は生真面目に、清瀬の用語解説をメモしていく。
「ただ、ダラダラと走っていても速さは身につかないから、ビルトアップ走とインターバ
ル走もする。ビルトアップ走は、徐々にペースを上げてダッシュをかける。インターバル
走は、速いペースと遅いペースを組みあわせて走る」
「ダッシュはわかるぜ」
とキングが言う。「五十メートル走とか百メートル走とか、徒競走みたいなもんだろ」
「ああ。でも長距離走者は、そこまで短距離でのダッシュ練習は基本的にしない。使う筋
肉が違ってきてしまうからね」
清瀬は練習表に視線を落とした。「四月後半の走の欄に、『B upビルトアツプ 1
0000』と書いてあるだろう? これは、『一万メートルを走るうちに、徐々にペース
を上げていけ』という意味だ。具体的には、一キロあたり最初は三分〇五秒だったもの
を、最後の一キロでは二分五十秒ぐらいまで上げていくと、走には効果的じゃないかと思
う」
「それって、すっごく苦しいんじゃない?」
ジョージが心配そうに走を見る。
「苦しいだろうな」
と、走は平然と答えた。