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三、練習始動(8)
日期:2025-06-27 16:44  点击:257

「このごろ、晩のジョッグでちょっとおもしろいことが起こっています」

「なんですか?」

  ムサは答えず、またもや「ふふふ」と笑った。

「商店街を走っているときです。走も今度、見にくるといいですよ」

  暗闇のなかで膝を抱え、湯船で向きあう二人のあいだに、白く丸い光が揺れた。

「ああ、走。外灯かと思っていたら、お月さまですよ」

  開け放した窓の向こう。春の夜空に、たしかに朧おぼろ月づきが浮かんでいる。

「ほら」

  ムサは両掌をそっと水面に差し入れ、微笑んだ。「すくえました」

「本当だ」

  楽しくなって、走も笑った。ムサの手のなかで、小さな月が白玉のように柔らかくにじ

んでいる。

  練習がはじまって一週間が経ったが、「やめる」と言いだすものは、だれもいない。そ

れが走には意外だった。風呂に入るのも億おつ劫くうになるほど、疲れはてているのに。

  どうしてだろう、と走は考える。最初に脱落するのはいやだ、という意地だろうか。一

緒に住んでいるのに、和を乱すようなことはしたくない、という遠慮だろうか。それと

も、走ることになんらかの手応えを得はじめているのだろうか。

  このまま、だれもやめることなく、練習をつづけていったら。走は湯船のなかで夢想す

る。竹青荘の住人たちと、本当に箱根駅伝に出られることになったら。

  そんなふうに考える自分の変化が、走は一番意外だった。

  一人で走ってきたのに。いまだって、一人で走っているのに。

  俺はなにかを期待してるらしい。そっと息を吐くと、水面の月がわずかに揺れた。期待

は、裏切られるときを思う心細さと、これまでに感じたことのない熱とを、走の胸のうち

に生じさせた。

  走はムサとともに風呂から上がり、竹青荘に戻った。玄関で健康サンダルを脱いでいる

と、頭上からじゃらじゃらと音が降ってくる。一〇一号室のドアが開き、清瀬が目の前を

憤然と横切って階段を上っていった。すぐに、双子の部屋から清瀬の怒声が聞こえてき

た。

「麻雀は禁止だと言っただろう。没収!」

  やっぱり、箱根駅伝は夢かもしれないな。走はそう思い、ため息をついた。天井の穴か

ら、点数表がひらりと落ちてきた。ジョージの囁き声も、一緒に落ちてくる。

「あとで計算するから、ハイジさんに見つからないように取っておいて」

「はいはい」

  と笑って、ムサが点数表を拾いあげた。

  本気で長距離に取り組む学生は、最低でも一カ月に六百キロは走る。追いこみの時期に

なると、月間千キロ以上走るものもざらにいる。そのレベルを目指して、走は走りこん

だ。竹青荘の住人たちの健闘を願ってはいるが、だからといって自分の練習を、できたて

ほやほやのチームのレベルに合わせるつもりはなかった。

「走は少し走りすぎだ」

  練習日誌をチェックした清瀬は、本練習のあとにそう言った。原っぱの草のうえで、着

替えたりストレッチをしたりしながら、全員でのんびりとクールダウンに努めているとき

のことだった。

  最初の二週間は、筋肉痛になった血豆ができた靴擦れがひどいと、だれもが悲惨な状況

で必死にメニューをこなした。だが、もとから素質はあったメンバーだ。いまはわずかず

つだが体が順応し、走ることが少しおもしろくなってきたようだ。練習表に書かれたメ

ニューを、なんとか消化できるまでになっていた。

  住人たちの順応力の高さに、走は内心驚いていたが、それはあくまでも初心者向けの練

習においてのことだ。走は段違いのレベルで走りを追求している。だれかが止めないかぎ

り、いつまでも、いくらでも、走ってしまう傾向にあった。

「年齢的にいっても、まだ体ができあがりきっていないんだから、無理をしちゃいけな

い。いま体を酷使しすぎて、故障でもしたらどうする」

  このごろ走は、自分の体がとても軽く感じられていた。走れば走るほど力がつき、ます

ます速度に磨きがかかっていく感触があった。だから実のところ、清瀬の忠告がピンと来

なかったが、それでも従順に「はい」と答えておいた。

「反対に、王子は走らなすぎだ」

  王子の練習日誌には、二日にいっぺんは、晩のジョッグのかわりに「ルームランナー」

と書いてあった。

「正直なのはきみの美徳のひとつだと思うが……。これは結局、『ジョッグをさぼって漫

画を読んでいた』ということだろう?」

  王子は清瀬が晩のジョッグに誘いにきても、漫画でバリケードを築き、頑として部屋の

ドアを開けないことがあるのだ。

  清瀬に追及され、王子は必死に弁明した。

「そうだけど、本当にルームランナーを使いながら漫画を読んでるんですよ。近ごろは、

脚に少し筋肉がついてきた気がするし」

「どれ」

  清瀬は王子のふくらはぎを触って確認する。それを見ていたユキが、

「ハイジ。おまえすぐにひとの脚に触る癖、やめたほうがいい」

  と忠告した。清瀬は「ふむ」と身を起こす。

「朝のジョッグでも、本練習でも、たしかに王子はちょっと進歩が見られる。だが、漫画

を読みながらルームランナーというのは、よくない。フォームが崩れるし、ロードを走る

感覚も養われないからね。晩のジョッグにも、毎日きちんと参加するように」

  有無を言わせぬ清瀬の静かな迫力のまえに、王子は「参加します」と誓うほかなかっ

た。走としては、ホッとした。王子にはなるべく外を走ってほしい。ただでさえ重量のか

かっている王子の部屋に、ルームランナーまで導入された。王子が室内でトレーニングす

るたびに、走の部屋の天井は張り裂けそうな軋みを立てる。

「正直な王子とちがって、虚偽と粉飾に満ちた日誌を提出する王様がいる」

  清瀬の言葉に、みんなはキングを見て笑った。キングは「ばれたか」と、困ったように

シューズの爪先で土をほじった。

「だってよう、全然走れなくて、タイムも上がらないし。こりゃまずいんじゃないかと

思って、ちょっと見栄張って報告したんだ」

「まだ練習をはじめて二週間だ。そうすぐには成果はあらわれない」

  清瀬はキングに優しく言いきかせる。「クイズ王になるには、着実に知識を身につける

ことと、早押しの技術が必要なんだろう?  陸上もそれと同じだ。小手先の細工なんて通

用しない。毎日の練習によって身についた体力と技術。それから、実力をしっかり見据え

る勇気が、本番で最後に自分を救うんだ。きみがちゃんと練習しているのは知ってる。だ

から、ありのままを書いていいんだよ」

「そうする」

  と、キングはうなずいた。


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06/29 05:44