走はニラに、おやすみを言った。
記録会に出ることへの、恐怖やためらいは薄らいでいた。逆に、自分がどれだけ走れる
のか、楽しみになってきたほどだ。
東体大記録会が近づくにつれ、走の気持ちはどんどん高ぶっていった。
ひさしぶりの実戦だ。ここまでの練習は万全だと確信していたが、それでも毎晩寝るま
えに、さまざまな思いが脳裏をよぎった。昔の知りあいと会ったら動揺して、レースへの
集中力が途切れるのではないか。競技に対する勘が鈍っていて、レースで仕掛けどころを
まちがうのではないか。高校陸上界では注目されるタイムを出せたが、はたして大学レベ
ルでも通用するのか。
目を閉じると悪い考えが次々浮かび、布団をはねのけて身を起こす。いますぐジョッグ
をしたい気持ちを必死で抑え、真夜中の暗い部屋で一人、「あせるな、あせるな」と呼吸
を整える。
なにも考えちゃいけない。イメージしろ。走は自分に言いきかせる。走ればいいだけ
だ。全身の筋肉の動きを感じながら、ひたすらまえに進むんだ。
そのときの熱を思い起こすと、迷いは途端に遠のき、散歩につれていってもらうときの
ニラみたいに、今度は心が逸はやってしかたがなくなってくるのだった。
走は練習のかたわら、講義にもちゃんと出席していた。単位も取れない人間が、走りで
結果を出せるわけがない、というのが清瀬の持論なのだ。だが練習があるので、コンパや
飲み会の誘いは断ってばかりだ。竹青荘のほかの住人も、記録会に向けて張りきっている
から、寄り道せずにきちんと帰ってきては、すぐに練習に取り組んだ。
そのため、商店街だけではなく、大学内部の人々にも、「ボロアパートに住んでるやつ
らが、なんだか熱心に走っているらしい」ということが知られはじめていた。
東体大記録会の前日、走は語学クラスが同じ友人に、翌日の講義の代返をいくつか頼ん
だ。
「なんだよ蔵原。明日、休むの?」
「記録会に出るんだ」
「あー。そういえばおまえ、マラソン目指してるんだって?」
「いや、マラソンじゃなく……」
目指しているのは箱根駅伝で、明日あるのはトラック競技の五千メートルだ、と走は
思ったが、説明は省いた。
大学に入ってはじめて、走は知った。陸上と縁のないひとからすると、マラソンと駅伝
のちがいなんてよくわからないものなんだ、と。トラック競技に至っては、「五キロも走
るの? トラックをぐるぐるまわって?」と、あきれたように笑われたぐらいだ。なぜそ
んなことをするのかわからない、由来の不確かな儀式のように思えるらしい。
俺にとってはすごく大事なものなのに、陸上って世間一般では案外地味な扱いなんだな
と、走としては衝撃の事実を知ってしまった思いだった。同時に、なんだか愉快な気もし
た。ほとんどのひとがどうでもいいと思っていることを、俺たちは毎日必死になって追求
しているわけか、と。
だからこのときも結局、笑って言葉を濁すことにした。
「うんまあ、マラソンの短縮版みたいな競技会だ。頼むな」
「任せろ。頑張れよ」
友人は真剣な表情で言った。よくわかっていないながらも、心から応援してくれている
ことは伝わってきた。
その夜、走は浅い眠りのなかでじっと身を横たえていた。薄く鋭く張りつめた眠りだ。
いいぞ。夢と覚醒の狭間で走は思う。最後まで残っていた無駄なものが削ぎ落とされ、一
晩のうちに、走るための体と心に変身していく気がするこの感覚。
それは、ずっと忘れたふりをしていた、試合前の闘志だった。
竹青荘の住人たちは、東京体育大学に向かうべく、白いバンに乗りこんだ。
「忘れ物はないか? ユニフォーム、シューズ、着替え、時計を持ったか?」
「はーい!」
バンにぎゅうぎゅう詰めになりながら、住人たちはバッグを掲げてみせる。
「ところで、だれが運転するんだ?」
とニコチャンが聞いた。
「俺ですよ」
清瀬は運転席に座って、シートベルトを締めた。助手席ではユキが地図を広げ、東体大
までの道のりを最終確認している。
「あの、監督は?」
と、走は質問した。ふだんの練習時はもとより、記録会にも同行しない監督など、聞い
たことがない。
「碁会所に行った」
「監督なのに?」「監督なのに!」「つうか監督じゃねえだろ、それ」と、不信と不満が
表明された。ムサが神童に、「先日から気になっていたのですが、ゴカイショってなんで
すか」と尋ねる。
碁会所の説明をはじめた神童をよそに、キングが言った。
「大家さんに、そんな趣味があったとはなあ」
「いままで知らなかったの? ずっとアオタケに住んでるのに」
ジョージがほがらかに疑問を呈する。
「走ることになるまで、特に大家さんと交流はなかったな」
とニコチャンが答えた。「隣に住んでるじいさん、ぐらいの認識だった」
「大家さんは、べつにいなくても問題ない」
清瀬が慎重にギアをドライブに入れ、アクセルを踏んだ。「監督が走るわけじゃないん
だから」
竹青荘の庭から勢いよく飛びだすバンを、ニラが尻尾を振って見送った。
走はすぐに、大家が記録会に行こうとしなかった理由を悟った。清瀬の運転には、問題
が大ありだったのだ。走っているうちにふらふらとセンターラインに近づいていくし、信
号で止まるたびに車体がぎこちなく揺れる。
「もしかしてハイジさん、今日までペーパードライバーだったんですか」
走はカーブで、車の窓ガラスに側頭部を思いきりぶつけた。
「キープレフト走行! キープレフト走行!」
とジョータが悲鳴を上げる。
「黙っててくれ」
と、助手席で命の危険に一番さらされているユキが、顔面蒼白で言った。
「運転が下手な男って、あヽっヽちヽも下手だって言わねえか?」
ニコチャンの爆弾発言に、ジョージとジョータが、「俗説でしょ?」「いや、一理ある
と思う」と勝手なことをしゃべりだす。「あっちって、どっちですか?」とムサが神童に
また尋ねる。
「いいから黙ってろ!」
と、やっぱりユキが怒鳴った。清瀬はというと、後部座席の会話など耳に入っていない
様子で、ハンドルにしがみつくようにして運転に専念している。