走は、隣に座っていた王子が肩にもたれかかってきたのに気づいた。
「王子さん? どうしたんですか?」
「酔った。吐く」
「ちょっと待ってください!」
車内は混乱状態に陥った。ジョータがコンビニの袋を王子の口もとに当て、ジョージが
王子を掌で必死にあおぐ。試合前だというのに、集中もなにもあったものではない。走は
ため息をつき、王子のために窓を開けてやった。
一行はやっとのことで、東体大に到着した。東京郊外の広々とした敷地には、整備の行
き届いた立派なグラウンドがあった。さすが体育大学はちがうなあと、感心しながら受付
をすませ、ゼッケンをもらう。
手にしたゼッケンを眺めたジョージが、
「ねえ、走」
と言った。「裏にチップみたいなもんがついてるんだけど、これなに?」
「それでタイムを計測するんだ。ゴールを通過したタイムが、自動的に記録される」
「すごい! ストップウォッチで計るのかと思ってた」
「大きな記録会や大会では、いまはほとんど自動計測だと思う。参加人数も多いから」
ゲートをくぐって観覧席に上がると、眼下のトラックでは女子の短距離が、トラックの
内側では走り幅跳びが行われているところだった。東体大の応援部が、観覧席からエール
を送る。
「意外だな。開会式や閉会式にきちんと出なきゃならないものかと思っていたのに」
とユキが言った。「適当に現地集合すればいいのか?」
「これは運動会じゃなくて、試合だからな」
と清瀬は笑った。「自分をベストの状態に持っていけるように、出場する競技の時間に
合わせて行動すればいいんだ」
階段状の観覧席の一角に場所取りし、ゼッケンをつけたユニフォームに着替えた。寛政
大学陸上競技部のユニフォームは、黒いシャツとパンツで、体側にだけ銀のラインが入っ
ている。胸の部分には、やはり銀色の文字で「寛政大学」とある。
「かっこいいな」
はじめて着ることになるユニフォームを手に取り、ジョータは満足そうに言った。
「どうしよう、兄ちゃん。俺たち、モテちゃうかもね」
ジョージは観覧席で堂々と裸になり、ユニフォームのシャツをかぶった。
「他大の女の子がたくさん応援に来てるし、今日は走るぞ、ジョージ!」
八百勝の娘のことを、こいつらに教えてやるのはしばらくやめておこう、と走は思っ
た。
「着替えたら、各自ウォーミングアップ。レースは二時半からだ。二時にはここに戻って
くること」
清瀬の一声で、住人たちはちりぢりになって走りはじめた。
走は清瀬と一緒に、グラウンドの周囲をジョッグした。体育館らしき建物が、見える範
囲だけで三つもある。設備が充実した、スポーツをするための環境だ。
高校時代に陸上部にいつづけていたら、俺も推薦でこういう大学に入れていたのかもし
れない。走は考えた。でも、どっちがよかったのかは、俺が自分の走りで答えを出すしか
ないんだ。
「ちょっとトイレ」
と清瀬が言い、グラウンド脇の男子便所へ入っていった。レース前はどうしても緊張し
て、頻繁にトイレに通ったりしてしまう。走も先ほどから何度かトイレへ行っていたの
で、気にせずに先に走りつづけた。
双子ははじめてのレースだというのに、ふだんどおりのバカ話をしていたな。まだ実感
がなく、レースの怖さも知らないからだろうか。
そんなことを思っていたら、「蔵原」と呼び止められた。振り向くと、ユニフォーム姿
の東体大の一年生が、道端の芝生のうえに座っていた。ストレッチをしていたところらし
い。仙台城西高校時代に、走と同学年で陸上部だった さかき浩こう介すけだ。
ああやっぱり、と走は思った。会いたくなかったが、ここに来れば会うだろうというこ
とはわかっていた。走は大きくUターンして、かつてのチームメイトのまえに立った。
「こんなところで会うとはな」
は芝生から腰を上げ、走をじろじろ見た。「まさか陸上をつづけてるとは思わなかっ
た」
「それしかできることないから」
と走は答えた。 のこめかみに、ひくりと血管が浮いた。
「あいかわらずだな、おまえ。あれだけ俺たちに迷惑かけといて」
走は、小柄な の頭頂部を眺めた。あ、つむじが二個ある、と発見したが、じっと黙っ
ていた。走のユニフォームの大学名を見て、 はふんと鼻で笑った。
「寛政って陸上部あったっけ?」
あるからここに来てるんだろ。走の頭に血がのぼった。自分よりもタイムが遅かったや
つに、ばかにされるのは我慢できない。
「ある。俺が陸上部だ」
走は傲慢に言い放った。静かな迫力に が思わずひるんだそのとき、
「走、なにしてる」
と、トイレから出た清瀬が声をかけてきた。「ウォーミングアップをさぼるな」
「すみません」
走も竹青荘の一員だから、ご多分に漏れず清瀬に胃袋と首ねっこを押さえられている。
途端に気弱な犬のようになって、急いで清瀬に謝った。 はするりと走から離れた。
「弱いやつらと、せいぜい仲良くかヽけヽっヽこヽしてろよ。おまえにはお似合いだ」
という囁きを残して。
「おい、ちょっと待てよ!」
走はダッシュで を追おうとしたが、ユニフォームの裾を清瀬にしっかりつかまれてい
たせいで果たせなかった。
「きみは案外、喧嘩っぱやいな」
走はのびたユニフォームを整え、「すみません」とまた謝った。
「いいかい、走」
清瀬は邪悪なまでににっこりと笑った。「江戸の仇かたきを長崎で、かけっこの侮辱は
トラックで、と言ってね」
「なんですか、それ」
「受けた屈辱はいつまでもいつまでも忘れずに、レースでおかえししてやるってことさ」
もしかしてハイジさん、すげえ怒ってる? 走は震えた。武者震いだと思おうとした。
ウォーミングアップを終えて観覧席に戻った清瀬は、集まった面々を見渡して力強く告
げた。
「さあ、行くぞ。思いきり走れ!」
「おう!」
と、めずらしく全員が声を合わせて叫んだ。