と言う清瀬に、片手をあげて返事する。
夜のほうから吹いてくる高原の風に当たっても、走の体はあたたかいままだった。
夕飯の席で、清瀬は練習メニューの変更を告げた。東体大に煩わずらわされるのは得策
ではない、と判断したらしい。朝晩のジョッグの時間をずらし、本練習でも、湖畔の道を
走るのは極力避けることになった。
メニューの変更に異議を唱えるものはいなかった。東体大の一年生に挑発されたこと
で、逆にやる気になっていたのだ。練習に打ちこめるなら、場所はどこでもいい。
「でも、これはキッツイですよ」
と王子はあえいだ。
竹青荘の住人たちは、道もない山の斜面を駆けあがっていた。神童が見つけてきたルー
トだ。
「走るっていうより、這い登ってる感じじゃない。木の根っこがあちこちにあるし、捻挫
したらどうすんですか」
「これぐらいで捻挫するやつは、運動神経が悪くて、足首が固いんだ。走るのには向かな
い」
清瀬は平然と言い、王子の背中を押した。「ほら、もう一息だ。頑張って少しスピード
を上げろ」
走と神童の姿は、もう見えない。歩くのさえ困難な急斜面を、強靭なバネとスタミナと
身の軽さで、さっさと走って登っていってしまう。
「忍者と一緒にしないでほしい」
と王子は汗をぬぐった。
傾斜のある場所を毎日走るのでは、膝に負担がかかりすぎる。清瀬は、山でのトレーニ
ングと、広大で平坦な場所で走距離をのばすトレーニングとを、効果的に組みあわせたメ
ニューを考えていた。
白樺湖から山を二つほど越えると、標高の高いハイキングコースがあった。山頂付近の
起伏のゆるやかなところに、景色を楽しみながら歩けるような道が作ってあるのだ。舗装
はされておらず、木片チツプが敷きつめられているだけなので、膝への負担も少ない。
清瀬は「高地トレーニング」と称して、ここでクロスカントリーをすることを思いつい
た。山を走らない日は、みんなでバンに乗ってハイキングコースまで行く。ハイキング
コースは一周三キロ強なので、そこを六周して、二十キロほど走るのだ。
走っていると、わずかに標高が上がっただけでも、体調によっては酸素の薄さをひどく
感じる。キングは慣れないうちは、「地獄めぐりだ」と言って、高地トレーニングをいや
がった。王子など、二十キロの終盤あたりでは、ハイキングをする老夫婦に追い越される
ありさまだった。
だが、だんだん体が順応し、着実に力がついてきていることが明らかになった。
ニコチャンは規則正しい食生活と練習のおかげで、体を絞ることに成功していた。余計
な脂あぶらを削ぎ落としたぶんだけ、体が軽くなってタイムが上がった。
理論派のユキは、練習内容について清瀬にいろいろ質問をぶつけるが、納得がいけば
黙々と走りこんだ。地道な反復作業が苦ではないのは、司法試験に合格したことが証明し
ている。
双子は苦労を苦労と感じない明るい性格だし、神童は山ではのびのびと走りを謳歌する
ことができた。斜面でまえへまえへと進む脚力と粘り強さには、走でさえ驚くほどだっ
た。
反対に、ムサは傾斜地は苦手だった。しかし平坦な場所では、ムサののびやかな筋肉が
途端に物を言った。長いストライドで、軽やかにチップを蹴って走る。
走力を一番危惧されていた王子も、少しずつ距離をのばしていた。いまでは十キロまで
なら、弱音を吐かずに走ることができる。めざましい進歩だった。その陰には、清瀬の深
謀遠慮があった。清瀬は、王子が合宿に持ってきた漫画を取りあげ、練習メニューをちゃ
んとこなせた夜だけ、それを読むことを許したのだ。
漫画がないと窒息してしまう、と常日頃から言っている王子だ。楽しい夜のひとときを
過ごすためだけに、涙ぐましいほどの頑張りを発揮しているのだった。
もちろん、走と清瀬も順調に、走るための体を作りあげつつある。
走はほかのメンバー以上に走っていたから、慢性的な筋肉痛で、なかなか寝つけないこ
ともあった。だが、新しい筋肉が生まれる痛みだと思えば、いくらでも耐えられた。うず
くような熱と痛みに、快感と紙かみ一ひと重えの喜ばしささえ感じた。朝が来て、また走
りだせば、昨日よりも深く高い速度の世界へ入っていく自分を、実感できた。
走距離がのび、粘ねばりが出てきた竹青荘の面々は、確実にいい波に乗っていた。練習
の成果が目に見える形で表れれば、それを励みにもっと努力できる。いままでは苦しくて
たまらなかった距離やタイムをこなせるようになれば、体を動かす楽しみをだんだん覚
え、もっと積極的に走りにのめりこむ。
東体大を避けて行われる夜明け前と日没後のジョッグも、だれもが余裕をもってこなし
た。ハイキングコースよりも標高が低く、設定タイムも距離も楽な湖畔のジョッグは、い
まや適度な息抜きとすら言えた。
長い夏合宿も折り返し地点にきたある晩、全員でジョッグをしている最中に、雷雨に
なった。長距離の試合は、雨が降ろうと風が吹こうと行われる。いい練習になる、と走は
悪天候を気にせず湖畔を走りつづけた。気温が下がって湿度があるほうが、呼吸も楽だし
走りやすい。
だが、雷鳴と雨足はどんどん激しくなった。稲光が夜空の低いところを横に切り裂く。
大きな雨粒にひっきりなしに打たれ、皮膚が痛くなってきた。滝のような雨音以外はなに
も聞こえず、地面に叩きつけられる水しぶきで、あたりは白く煙って見える。山の天気は
変わりやすいものだが、ここまでの豪雨に遭うのははじめてだった。
あっというまに、服を着て泳いだような姿になった。暗くて見通しも悪い。とうとう清
瀬が走るのをやめ、後続のメンバーに、別荘へ戻るよう指示した。
「体を冷やすな。着いたものから、どんどん風呂に入れ」
走は清瀬のそばに立って、メンバーがジョッグを切りあげ、林道へ向かっていくのを確
認した。空から流れ落ちる水の幕の向こうに、なんとか人影が見える。
六人まで数えたところで、おかしいぞと走は思った。いま走っていったのは、最後尾に
いたはずの王子だった。二人たりない。ジョータとジョージが、まだ来ていないのだ。
「ハイジさん、双子がいません!」
「どこへ行った?」
怒鳴らなければ、互いの声も聞き取れない。
「どっかで雨宿りしてるのかもしれない。俺、探してきます! ハイジさんは先に戻って
てください!」
走は双子の姿を求めて、湖畔の道を逆行した。走るとますます勢いよく雨粒が顔に当
たって、溺れてしまいそうだ。
双子にはなかなか行きあわなかった。どこかですれちがったのに、雨のせいで見逃した
んだろうか。立ち止まった走の頭上で、光とほぼ同時に轟ごう音おんが炸裂した。思わず
身をすくませた走は、目の端に映るほのかなオレンジ色の光に気づいた。湖べりにある駐
車場に設置された、公衆便所の明かりだ。