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五、夏の雲(9)
日期:2025-06-27 16:52  点击:224

「いやべつに」

  と、にやにやしたまま、わざとらしく視線をそらして空を見上げる。

「すごいんだねえ」

  葉菜子は感嘆して、小さく息を吐いた。「こんなに練習するものだとは、知らなかっ

た。マラソンって、持久走のすごく得意なひとが、ちょちょいと走っちゃうものなのかと

思ってた」

「マラソンじゃなく、駅伝」

  と走は訂正した。

「そっか、駅伝」

「うん」

  なんだか顔が熱い。右隣で清瀬の体が小刻みに震えているのがわかるが、表情をたしか

めることはできなかった。くそ、ハイジさんは絶対に笑ってる、と走は思った。

  双子が三人のまえをよぎって走る。

「あと一周」

  と清瀬が言った。葉菜子は双子に合わせて首をめぐらせる。走は、ユキから託された使

命を思い出した。

「えーと、勝田さんは、双子を好きなんだよね?」

「やだ、なんでわかったの!?」

  そりゃわかるだろ、と自分と清瀬が同時に思ったことを、走は察知した。

「それで、その、どっちを好きなの?」

「どっちって?」

「いや、だから、ジョータとジョージの、どっち」

「どっちもだよ、やだもう!」

  葉菜子は照れて、走の肩を叩いた。妙なノリをした子だなと思った直後に、葉菜子の言

葉の意味が脳に達した。

「はあ!?」

  走の声が裏返った。「どっちもって、そんなんでいいのかよ」

「だって、同じ顔だよ。すごく好み」

「あんたなあ!」

  怒りがこみあげ、走は立ちあがった。「双子は、ふた山百五十円のタマネギじゃねえん

だよ。好みの顔だから二人とも好きって、ひどいだろ」

「走にしては、まずまずの比喩だ」

  と清瀬は言い、葉菜子はきょとんとして、走を振り仰ぐ。

「どうして?」

「どうしてって、双子はそれぞれべつの人間なんだからさ。もっとこう、性格とか、そう

いうところを見て……」

「性格って、そんなに大事かな」

「大事でしょう!」

「そうかなあ。私は『好き!』ってなったら、性格なんてあんまり気にならない」

  葉菜子は幸せそうに微笑んだ。「昨日と今日で、二人とちょっと話せたけど。生理的嫌

悪感が湧くような癖がなくて、好みの顔。それだけで充分じゃない?  どっちかなんて選

べないな」

  走は脱力し、再び木陰に座った。清瀬は笑いをこらえすぎたためか、しゃっくりをして

いる。

「勝田さんの言うことは、一理ある」

  と、清瀬はしゃっくりの合間に言った。「たしかに、どんなに意地悪をされても、苦し

められても、そんなこととは関係なく好きになってしまうときはあるな」

「ですよねえ」

  と、葉菜子は味方を得て大きくうなずく。「だってそういうものでしょ、恋って」

  二十五キロを走り終え、竹青荘の住人たちが続々と戻ってきた。葉菜子は、

「大家さんを呼んでくるね。ニラを散歩させるって言って、コースの奥へ歩いていっ

ちゃったの」

  と木陰から出ていった。

  走と清瀬はしばらく黙って、草が風に揺れるのを眺めていた。

「そういう経験があるんですか」

  と、走は尋ねた。清瀬はやっとしゃっくりが止まったらしい。

「きみはないのか」

  と、笑いを含んだ声で尋ねかえしてきた。

「……ないです」

「そうか?  たとえば走ることは?  どんなにつらくても、いやな思いをしても、きみは

走りつづけているじゃないか。それは、勝田さんが言ったのと、同じ気持ちからなんじゃ

ないのか」

  清瀬は立って日向に行き、地面に転がった竹青荘の面々を引きずり起こした。

「ほらほら、ちゃんとクールダウンしろ」

  ああ、と走は思った。もしもハイジさんの言うとおり、走ることに対するこの気持ち

が、恋に似ているのだとしたら。恋とはなんて、報われないものなんだろう。

  一度魅惑されたら、どうしたって逃れることはできない。好悪も損得も超えて、ただ引

き寄せられる。行き先もわからぬまま、真っ暗な闇に飲まれていく星々のように。

  つらくても、苦しくても、なにも得るものがなくても、走りやめることだけはできない

のだ。

  プロテイン入りレモン水を配るため、走も日向に足を踏みだした。日射しが脳天を直撃

する。 が急にいっせいに鳴きはじめる。雲は吹き流されてもうどこにもない。

「空が青いなあ」

  夏だった。


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06/29 16:00