走はそう理解したが、実践できるかどうかは、疑問の残るところだった。走りに真剣に
取り組めば取り組むほど、本番前の緊張からたやすく自由にはなれないし、自分の心身と
向きあうのは、とても孤独な作業だからだ。妥協と過剰のあいだで、常に一人で戦わなけ
ればならない。
走は結局、あれこれ考えるのをやめた。考えたらそのぶんだけ、恐怖が生まれる。悪い
ことばかり想像してしまう。
幽霊を怖がるのは、幽霊について考え、想像するからだ。走はそういう、曖昧なものが
嫌いだった。「いると思えばいる」ような、まどろっこしいものに煩わされたくない。
「ある」か「ない」か、はっきりしてほしい。脚を交互に動かせばまえに進むのと同じよ
うに。
走はなにも考えずに走った。ひたすら練習に打ちこみ、体で覚えた「走る」という行為
を反復した。プレッシャーを克服する方法を、走はそれ以外に知らなかった。
竹青荘の面々は、走とちがって経験が浅いから、緊張を解きほぐす方法をまだ確立して
いない。走と同じように、ますますハードな練習をするものもいたし、お香を焚いて眠る
ものもいたし、スポ根漫画を片端から再読するものもいた。予選会に向けて、それぞれが
最後の調整に必死だった。
予選会を二日後に控え、走は自分の集中力が、いいペースで上がってきているのを感じ
ていた。
当日に疲れを残してはいけないので、その日の練習は軽めのものだった。もちろん、各
自で朝晩のジョッグはするが、予選会前日も本練習の予定は組まれていない。するべきこ
とはすべてした。あとは調子を見ながら体をほぐし、闘志と集中力をますます高めるしか
ない。
「最後の仕上げはひとつでしょう」
というジョージの発案で、竹青荘の面々は予選会の前々日に、双子の部屋で軽く酒盛り
をすることにした。緊張をやわらげ、団結を固めるには、このメンバーだと酒を飲むのが
一番手っ取り早い。
一応は監督だからということで、大家も呼んだ。だが、問題があった。大家は穴の修繕
費用を清瀬に預けたのだが、清瀬はその金を神童に渡し、箱根駅伝のための積み立てにあ
てていたのだ。移動費や宿泊費で、金はいくらあってもたりない。
大家が玄関の敷居をまたぐのに合わせ、ジョータが雑誌のグラビアページを眺めなが
ら、大家の眼前を横切った。水着姿の女性の写真に気を取られ、大家は天井を見上げるこ
となく靴を脱ぎ、ジョータにくっついて階段を上った。作戦成功だ。台所から様子を見て
いた走とジョージは、小さく手を打ちあわせた。
穴のうえには王子が座ることになった。地震が来ても、トイレに行きたくなっても、大
家がいるかぎり絶対にそこから立つな。清瀬と神童からそう厳命された王子は、おとなし
く漫画を読みながら穴を隠している。
「ではここで、監督の一言をお願いします」
程良く酒がまわってきたころに、清瀬が言った。一升瓶を抱えこんでいた大家が、ふら
ふらと立ちあがる。はじめて監督らしいところが見られるのかと、走は期待して大家の発
言を待った。
「いよいよ予選会なわけだが……、勝つための秘訣を教えよう」
大家はしわがれた声で、厳かに述べた。「左右の脚を、交互にまえに出せ!」
室内は静まり返った。大家は、降り注ぐ失望と落胆の気配を察したらしい。
「……そうすりゃあ、いつかはゴールに着く。以上!」
「以上かよ!」
キングはコップを乱暴に置いた。
「大丈夫なのか、このひとは」とユキ。
「もうちょっとまともな監督を招しよう聘へいできねえのかよ」とニコチャン。
「あー、やる気がそがれる」とジョータ。
ひそやかな不満の声が広がる。走は急いで、清瀬に話を振った。
「ハイジさんは最初から、このメンバーなら絶対に箱根を目指せるって、信じてましたよ
ね。俺は半分以上無理だと思ってたけど……。どうして、あんなふうに確信を持てたんで
すか?」
「ん?」
清瀬はコップから視線を上げ、微笑んだ。「みんな酒に強いから」
「はい?」
大家への文句がぴたっと止まり、今度は清瀬に視線が集まった。
「長距離の選手には、いくらでも飲めるって体質のひとが多いんだ。内臓の代謝がいいの
かな。きみたちも、ザルを通り越してワクだろ? ずっと飲みっぷりを観察していて、こ
れはいける、と思ったわけだ」
「酒飲みなんて、世の中にいくらでもいるでしょう!」
神童は「信じられない」とばかりに天を仰ぐ。
「そんな理由で、ひとを巻きこんだのかおまえは!」
ユキの声は怒りで裏返っている。走は「ああ」とうめいた。清瀬にみんなのやる気を取
り戻してもらいたかったのに、これでは逆効果だ。
「本当に、酒を飲む量だけを根拠にここまできたの?」
王子は衝撃のあまり腰を浮かしかけ、神童に目で制されて急いで座り直した。「それっ
て、泥のうえに気力だけで高層ビルを建てたようなものですよ」
「それだけじゃないよ、もちろん」
と言う清瀬は、やや呂ろ律れつが怪しい。「きみたちの眠っている才能の輝きに、俺は
気づいてしまったんだ」
「酔ってるんですね、ハイジさん」
走はため息をついた。
「あーあ、なんか景気のいい話はないのかよ」
キングが畳に仰向けに転がる。
「そういえば、葉菜子さんとはどうなりましたか」
と、ムサが双子に尋ねた。
「葉菜ちゃん?」
「どうなったって? 仲いいよ?」
双子は邪気なく答える。
わかってない。こいつら、やっぱり全然わかってない、と囁きがかわされる。
「そういやあ、おまえら彼女はいねえのか」
さっきから一本のスルメをちびちびかじっていたニコチャンが、思いついたように言っ
た。「いるなら明後日、応援に来てもらわねえとな」