竹青荘で、こういう話題が出るのはめずらしかった。生活空間が近接しすぎているの
で、プライベートな部分にはあえて踏みこまないように気をつかっている、ということも
ある。わざわざ言わなくても、彼女ができればなんとなくわかってしまうためでもある。
しかしここ半年ほどは、全員が練習に忙しく、お互いの恋愛事情をまったく把握できて
いなかった。もちろん以前から、自分の部屋に彼女をつれてくるものはいない。会話もな
にも筒抜けだからだ。
双子は、「募集中!」と声をそろえた。募集してるなら、応募者の存在に気づけよ、と
走は思った。キングは黙って背中を丸める。
「そういうあんたはどうなんですか」
と、ユキがニコチャンに聞く。
「俺はいま、そんな体力が残ってない」
ニコチャンは、無精髭の浮いた顎をぼりぼり いた。
「僕もね」
と神童はうつむく。「後援会や大学側との交渉で飛びまわっているから。そろそろ愛想
をつかされそうだよ」
「つきあってるひといるんですか」
と、走はびっくりした。地味で実直そうな神童と、恋の華やぎとが、いまいちうまく結
びつかなかった。
「神童さんは、入学当時から交際している女性がいます」
とムサが教えてくれた。「私はだめですねえ。なかなか、故郷まで来てくれるというか
たはいません」
いきなりそこまで話を進めなくても……、と走は思った。
「走はいないんですか?」
ムサに尋ねられ、走は首を振る。
「俺はもてないですから」
「そんなふうには見えませんけどねえ」
「あの、王子さんはどうなんです」
あわてて矛先を向けたが、王子は漫画に視線を落としたままだった。
「僕は二次元の女の子にしかキョーミないから」
アイドルのような顔に生まれついたというのに、宝の持ち腐れだ。王子はちらっと清瀬
を見た。
「それより、ハイジさんの噂を文学部でたまに聞くけど? このひと、こう見えていろい
ろ……」
イテッと小さな悲鳴をあげ、王子は口をつぐんだ。清瀬が指で弾き飛ばした落花生が、
眉間に命中したのだ。清瀬をそれ以上追及しようという勇気のあるものは、だれもいな
かった。清瀬はうっすらと笑い、
「ユキは?」
と言った。
「将来性があって性格がよくて見た目も悪くないんだよ? いるに決まってるだろう」
ユキは平然と答えた。キングがますます縮こまる。
「俺には聞かないのか」
と大家が茶碗になみなみと焼酎を注いだとき、電話の音が響いた。ユキの携帯だ。
ちょっと失礼、とユキは部屋から出ていった。
「なんだなんだ、また彼女からか?」
とニコチャンが言う。ユキの携帯がこのごろよく鳴っていることに、走も気づいてい
た。
「そのわりには、ユキさんはなんだか最近、沈んでいるようではありませんか?」
とムサが心配そうに首をかしげた。
キングはやけ酒を飲むことに決めたらしい。「氷がねえや」と、からの丼を振る。戸口
に近いところにいた走は、「取ってきますよ」と立ちあがった。
階段を下りると、玄関の引き戸が開いていた。ユキが表に出て、電話で話しているよう
だ。声がわずかに聞こえてくる。なにかを言い争っている気配だったので、走は気になり
つつも、邪魔をしないよう足音を忍ばせて台所に入った。
氷を丼に移し、冷凍庫の製氷器に新たに水を張る。みんなの飲みぶりからすると、まに
あわないかもしれない。走は冷凍庫のつまみを「強」にし、丼を持って台所から出た。
玄関の引き戸は、まだ開いたままだった。だが話し声は聞こえない。ためらったのち、
走は健康サンダルを履いて、ひょいと表を覗いてみた。
ユキが玄関脇にしゃがんで、夜空を見上げていた。
「氷、できましたよ」
走はそっと声をかけた。「また飲みましょう」
ユキは「ああ」と答えたが、立とうとしない。左手に携帯電話を握って、ぼんやりした
ままだ。
「なにか悪い知らせだったんですか」
走は玄関の敷居をまたぎ、丼を抱えてユキの隣にしゃがんだ。
「ちがう」
とユキは言った。「新聞記事を見た親が、一度家に顔を出せってうるさくてね」
「ユキさんの実家はどこなんですか?」
「東京」
それならば、家に帰るのに手間はかからないだろうし、そもそも竹青荘のようなボロア
パートに下宿する必要がない。そういえば、ユキ先輩は正月にも帰省しなかったと言って
いたな、と走は思い出し、なにか事情があるようだと察した。
庭の草むらで、虫がうるさいほど鳴いている。
「走はどうして、取材に乗り気じゃないんだ」
とユキに聞かれ、走は「うーん」とうなった。
「俺、けっこう恨まれてるんですよ。親も、高校んときの部活のやつらも、たぶん俺の顔
なんて見たくないと思ってるはずです。だから、できるだけ目立つことはしないでおきた
いな、と」
「いろいろ苦労があるようだな。単なる陸上バカかと思っていたが」
ユキは辛辣な言葉を吐いたが、深く尋ねてきたりはしなかった。
「陸上バカすぎたおかげで、こそこそ取材から逃げまわるはめになってるんですけどね」
と走は笑った。
双子の部屋が、にわかに騒然とした。走りまわったり、なにか叫んだりしている物音が
聞こえてくる。走とユキは頭上を振り仰ぎ、
「なんだろ」
と立ちあがった。
庭に面した二階の窓が開き、
「ユキ! いるか!」
と清瀬の呼ぶ声がした。
「いるけど、どうした」
「救急車呼んでくれ!」
清瀬は走とユキの姿を認め、急き立てるように腕を振った。「大家さんが血を吐い
た!」
救急車に乗って、病院まで大家につきそっていった清瀬は、日付が変わってしばらくし
てから、ようやく竹青荘に戻ってきた。
早寝早起きが染みついて、眠くてたまらなかったが、大家の容態が心配で、みんな寝ず
に待っていた。玄関先で住人たちに取り囲まれた清瀬は、疲れのにじむ表情で、沈鬱そう
に報告した。
「胃い潰かい瘍ようができていて、一週間の入院。極度の緊張からくるストレスが原因だ
そうだ」
「ストレス!?」
と、ジョージが素っ頓狂な声を上げた。「なんでストレス?」
「責任感とは無縁の、のほほん監督ぶりだったのに?」
ジョータも首をかしげる。絶対にただの飲み過ぎだ、と走は思った。
「原因については、俺もおおいに疑問ではあるが……。大家さんは大家さんなりに、俺た
ちを心配してくれていたんだろう」
清瀬はこめかみを揉んだ。「そういうわけで、明後日、もう明日か。明日の予選会は、
監督不在で挑むことになる」
「べつにかまわないけどねえ」
「いつも、いないようなもんだし」
双子が率直な感想を述べ、走はうなずいた。
「いざというときには頼りになる、って言ってませんでしたか?」
走の囁きに、
「たぶん、って言っただろ」
と清瀬は答え、やれやれとばかりに、羽織っていたパーカーを脱いだ。