七、予選会
「いい天気だ」
走かけるは大きくのびをして、さわやかな秋の空気を吸いこんだ。出がけにラジオで聞
いた天気予報では、気温十三度、湿度八十三パーセントと言っていた。風はほとんどな
い。十月半ばのこの時期は、比較的走りやすい天候がつづく。戦いに適している、と走は
思った。
走の隣ではジョージが、ピクニックシートを持った家族づれを眺めていた。土曜日とい
うこともあり、公園には早くも、散歩や行楽を兼ねて予選会を見に来た人々が集まりはじ
めている。
「楽しそうだなあ。俺はさっきから膀ぼう胱こうがおかしくなってるのに」
「どうしたんだ?」
「トイレに行っても、なんにも出ない」
ジョージは起きてから、もう十回以上はトイレに行っている。緊張するなと言っても、
無駄だろう。立川の昭和記念公園には、各校の応援部が打ち鳴らす太鼓の音が響いてい
た。もうすぐ予選会がはじまることを、否応なしに思い知らされる。
今日の昼までには、箱根駅伝に出場できるか否かが決まるのだ。ジョージの高ぶった神
経をなだめる言葉は見つからず、走は「俺もだ」とだけ言った。
ジョータは少し離れた芝生のうえで、寝そべってじっと目を閉じている。腹に置いた手
が時折ぴくっと動くから、眠っているわけではなさそうだ。竹青荘の面々は、夜も明けき
らぬうちに起床し、一時間ほど電車に乗って、昭和記念公園にやってきた。だが、走も眠
気は感じない。意識が隅々まで冴え渡っていた。
「俺はもう一度ジョッグしてくるけど、ジョージはどうする?」
と走が尋ねると、ジョージは「トイレに行く」と答えた。走は芝生から出てジョージと
別れ、広大な公園の敷地内を走りはじめた。
他大の選手たちも、足ならしをかねて公園の地形の把握に余念がない。東体大の青い
ジャージを見かけるたびに、走の鼓動はぎこちなく跳ねた。 には会いたくなかった。
レース前の集中を乱されたら、今度は口げんかではすまなくなる。
見物人の波が、贔屓ひいきの大学や選手に声援を送るため、スタート地点のほうへ押し
寄せはじめた。学ランで身を固めた応援部員が、大きな旗と数々の鳴り物を抱え、少しで
もいい場所を確保するために、他大学の応援部と火花を散らしている。
もう充分に体はあたたまった。じっとしていられない気持ちだったが、レース前に疲れ
るわけにはいかない。走は自分にそう言いきかせ、ジョッグをやめてスタート地点近くの
草地に戻った。
八百勝と左官屋が作った例の横断幕が掲げられていたので、寛政大の陣地はすぐにわ
かった。商店街の人々がビニールシートに座り、予選会のはじまりを告げる号砲を待って
いる。竹青荘の住人たちも、走るための準備を終えて全員が集まっていた。まわりには適
度な距離を置いて、他大学の陣地が点々とあり、大学名を染め抜いた色とりどりの幟のぼ
りを立てていた。
「うちの横断幕、なかなかいいよな」
走の姿を見つけ、キングがさっそく話しかけてきた。走は「そうかな」と思ったが、キ
ングの指先が震えているのに気づき、おとなしく「はい」とうなずいた。
「そもそも寛政大は、寛政の改革をした松平定信公の精神を尊び……」
キングは緊張のためか、観光案内の壊れたテープのように、雑学を垂れ流しはじめる。
走は、適当に相あい槌づちを打ちながら腰を下ろした。葉菜子が毛布やペットボトルの水
を用意し、ビニールシートのうえは快適な空間になっていた。
「試走もしたから、わかっているとは思うが、今日の戦略をおさらいする」
と清瀬が言った。神童とムサは、テレビクルーの機材を感心して眺めていたが、急いで
清瀬の近くにやってきた。走はホワイトボードに、予選会で走るコースの略図を描いた。
「なにそれ、迷路?」
王子が眉を寄せる。
「コースは簡単です」
と、走は王子への反論を含みつつ、図を示して説明をはじめた。「まず、記念公園に隣
接する自衛隊駐屯地からスタート。滑走路と誘導路を二周します。それから一般路に出
て、駅前通りを行き、モノレールの高架下をくぐって、公園に戻る。公園内を一周し、芝
生広場の横がゴールです」
清瀬がコースにおける注意点を挙げる。
「駐屯地の試走はできなかったが、滑走路と誘導路は、とにかくだだっぴろいトラックだ
と思えばいい。二周で五キロだ。はじめて走る場所だし、目標物もないから、距離感がつ
かみにくいと思う。どういうレース展開になるかわからないが、スタートから飛ばす選手
に引きずられてはだめだ。自分でペース配分を考えること。モノレールをくぐったあたり
が十キロ。十一・二キロ地点で折り返し、公園に戻ってすぐが十五キロ。給水があるが、万
が一取れなくても気にしすぎるな。そしてここからは、余力が残っているかどうかが勝負
だ。公園内は細かいアップダウンが多い。スパートをかけて、一秒でも早くゴールへ駆け
こめ」
「質問です」
とムサが挙手した。「予選を通過するためには、どのぐらいのタイムを出せばいいんで
すか? 目安を知りたいです」
「あせりすぎてはいけないから、あまり教えたくないんだが……」
と清瀬は渋った。
「こいつらは少しあせらせたほうがいい。放っとくと、タラタラタラタラ走るから」
とユキが言う。「気候やレース展開によって、年ごとにちがいはあるけど。十人の合計
タイムが十時間十二分台だったら、確実だね」
「ひえー!」
双子が奇声を発した。
「てことは、二十キロを一人あたり、一時間ちょっとで走るってこと?」とジョータ。
「一キロを三分強で走るペースだよ、兄ちゃん!」とジョージ。
「俺たちには、インカレポイントがない」
とニコチャンが補足した。「タイム的に七位以下だと、そこにインカレポイントが絡ん
でくるから、俺たちは逆転負けする可能性が高くなるぞ。純粋な合計タイムだけで決ま
る、六位までになんとか食いこみたいところだ」
「大丈夫」
と、清瀬が力強く動揺を鎮めた。「走と俺が、なるべくタイムを稼ぐ。出場者数が多い
から、きみたちは最初は固まって走って、ペースを維持してくれ。滑走路を一周するうち
に、力のないものは振り落とされていくはずだ。速すぎたり遅すぎたりするペースに、決
して惑わされるな」
「はーい」
と、ジョージがよい子の返事をする。