走は、黒と銀のユニフォームを身につけた、竹青荘のメンバーを見た。余計な贅肉のな
い、しなやかな筋肉を薄く張り巡らせた体。常連校の選手と比べても見劣りしない、走る
ための生き物の体だ。物怖じせず、目は好奇心と闘志で輝いている。
いける、と走は思った。
もうなにも考えることはなかった。スタートしたら、走るだけだ。走はまえを見据え、
出発の号砲を待つ。
午前八時半。予選会ははじまった。
三十六大学、四百十五人の選手たちが、いっせいに走りだす。箱根駅伝出場をかけた、
戦いの幕開けだった。
このなかから箱根に行けるのは、九校のみだ。絶対にそのなかに入ってみせる。走は力
強く地を蹴った。
レースはスタート直後から速いペースで展開した。
走と清瀬は、二、三十人ほどで形成された第一集団のなかにいた。走はスパートをかけ
たくてじりじりした。隣を行く清瀬に「落ち着け」といさめられ、あせりをなんとか抑え
こむ。
トップを行くのは、西京大学の黒人留学生二人だ。あっというまに第一集団と差をつ
け、もう滑走路の最初のコーナーを曲がっている。箱根常連校である甲府学院大の黒人留
学生、イワンキも果敢にあとについた。イワンキは箱根で三年連続して二区を走ったエー
スだ。走ははるか前方を行くイワンキの背中に、最終学年となったエースの、箱根にかけ
る自負と意気ごみを感じた。
トップの三人の走りに引きずられるように、第一集団も最初の一キロを二分四十九秒で
通過した。自衛隊の滑走路が広すぎて、距離感をつかみにくいせいもあるだろう。二十キ
ロを走ることを思えば、かなりのハイペースだ。ついていけないものが続出し、二つ目の
コーナーを曲がるころには、選手全体は早くも縦に長くのびていた。
清瀬が腕時計を確認し、振り返る。竹青荘のほかのメンバーは、七、八十人から成る第
三集団のなかで、固まって走っていた。
清瀬はコースの外側ぎりぎりまで出て、後ろから自分の姿が見えやすい位置を取った。
右掌を下に向け、「抑えていけ」と合図する。あらかじめ決めておいた法則どおり、次々
に指で数字を作り、「一キロ三分十秒以内で五キロまで。あとは各自判断」と指示を送
る。「各自判断」は、こめかみ付近で掌をパッパと開閉する仕草だ。ユキと神童がうなず
き、まわりを走るメンバーに手早く伝えたのがわかった。
「俺たちもペースダウンしますか」
と走は尋ねた。
「するのか?」
と清瀬が尋ね返す。
「いいえ」
そんなつもりは、さらさらなかった。清瀬は走りながら、走の背を軽く叩いた。
「一般路に出たら、また新しい展開があるだろう。いざというときには、俺を気にせず
打って出ろ」
葉菜子はスタート地点近くで荷物をまとめ終わり、滑走路を二周する住人たちを応援し
ていた。広大すぎて、一番遠い辺を走っているときには、選手の姿は豆粒ほどにしか見え
ない。しかし集団が近づいてくると地響きがし、目前を通過するときには、選手の息づか
いと汗の浮いた体が発散する熱が感じ取れる。
ストップウォッチを片手に、葉菜子は驚いていた。
このひとたちはみんな、なんてスピードで走るんだろう。自転車を必死に漕いだときよ
りも、まだ速いぐらいだ。選手の顔を視認するのがやっとというほど、一瞬で通り過ぎて
いく。こんなスピードで、二十キロを走り抜くんだ。
黒人選手が三人通過し、四十メートルほど離れて、第一集団が来た。走と清瀬がいる。
まだまだ余裕の表情で、軽やかに無駄なく体を運んでいる。周囲の見物客たちが、「頑張
れ!」と声援を送った。葉菜子も声をかけようとして、できなかった。胸に空気の塊が詰
まった。
第三集団に双子がいた。竹青荘の八人は固まって、遅れを取らないように、少しでもま
えに出るために、懸命に走っていた。
「先頭は二分四十九秒ペース。引きずられないで!」
情報を伝えた葉菜子は、自分が泣きそうになっていることに気づいた。
走る姿がこんなにうつくしいなんて、知らなかった。これはなんて原始的で、孤独なス
ポーツなんだろう。だれも彼らを支えることはできない。まわりにどれだけ観客がいて
も、一緒に練習したチームメイトがいても、あのひとたちはいま、たった一人で、体の機
能を全部使って走りつづけている。
滑走路を二周し、五キロを走った時点で、先頭の黒人選手と第一集団のあいだは、百
メートル以上離れていた。葉菜子の近くにいた中年男性が舌打ちした。
「だらしねえなあ、日本人選手は」
そうじゃない、と葉菜子は言いたかった。あんたはなにを見てるのよ。先頭を行く選手
も、そのあとを追う選手たちも、なにもちがいはない。あのひとたちの真剣な表情に、肉
体の限界に挑む決意に、なぜ気づかないの。だらしないひとなんて、一人もいない。
両手を固く握りしめ、葉菜子は寛政大のユニフォームを目で追った。負けないで。みん
な、どうか負けないで。
なにに対して負けないでと願っているのか、葉菜子は自分でもよくわからなかった。ラ
イバルの選手や大学になのか、沿道で勝手な論評をしながら見物する人々になのか、それ
とも、走っている彼ら自身になのか。わからないが、葉菜子はひたすら願った。負けない
でほしかった。なにものにも。
八百勝が声をかけてきた。
「行くぞ、葉菜」
ほらほら、と八百勝は葉菜子をうながす。「みんな、いい位置につけてるみたいじゃね
えか。ゴールで待っていてやろう」
左官屋も鼻をすすり、うなずいてみせる。商店街の人々は、陸上選手の走りを間近で見
るのははじめてだった。そのスピードに息をのみ、竹青荘の面々が遜色なく戦っているこ
とに、胸打たれずにはいられなかった。
いつもはヘラヘラしているが、あいつらは本気だったんだ。本気で、走ることに取りく
んできたんだ。予選会を見てようやく、そのことを実感した。
商店街の人々は、毛布やペットボトルを持って、公園内を移動しはじめた。芝生広場で
いい場所を確保し、走り終えた選手を迎えなければならない。
葉菜子もまばたきして、にじんだ涙を乾燥させた。泣いている場合ではない。レースは
はじまったばかりだ。彼らを信じて、いまは自分のやるべきことをしなければ。
ビニールシートを抱えた葉菜子は、朝露に濡れた草を威勢よく踏み分け、歩いていっ
た。
レースは五キロを通過し、一般路へ出たところで、新しい局面を迎えた。第一集団がば
らけはじめたのだ。先頭との差は縮まらないが、離されることもない。あいかわらずハイ
ペースの展開に、脱落するものが出たということだった。