だが俺も走り抜いてみせる。ニコチャンは悲鳴を上げはじめた肺に、また空気を取りこ
んだ。走るという意志においてまで、走に遅れをとるわけにはいかない。
寛政大のユニフォームを着たものたちは、走を先頭に熱と力で結ばれ、夜空に輝く星座
のように、ひとつの形をなしてゴールを目指していた。
葉菜子は芝生広場で場所取りをし、急いで公園内のコースへ向かった。ゴール近くに
は、各大学の応援部がひしめきあっている。見物客も二重三重の人垣を作って、選手の到
着を待っている。にわかにさわがしくなったため、公園の森の木々から、鳥たちが驚いて
飛び立った。
葉菜子はゴールから五十メートルほど手前で、ようやくひとの壁に隙間を見つけた。
「すみません」ともぐりこみ、前列に入らせてもらう。寛政大のジャージを着ていたの
で、見物客は関係者だと察し、親切に場所を空けてくれた。
葉菜子はストップウォッチを見る。スタートから五十七分三十五秒が経過。二十キロを
走るのだから、いくらなんでもまだかかるだろう。
そう思っていたのに、歓声が波のように近づいてきた。各大学の応援部は、ここぞとば
かりに校歌を歌い、旗を振り回す。
緑の木陰から、先頭のランナーが見えてきた。西京大学の黒人留学生だ。つづいて、同
じくもう一人の黒人留学生。
「すごい……」
葉菜子はつぶやいた。見物客のどよめきのなか、留学生たちは二十キロを五十八分十二
秒と二十八秒でゴールした。あの身体能力の高さときたら、無敵という言葉がふさわし
い。竹青荘のメンバーは、どうなったのか。葉菜子はゴールした選手に拍手を送りながら
も、のびあがってコースを見た。
カーブを曲がって、人影が表れた。葉菜子は思わず絶叫した。言葉にならない。
走だった。
三位でゴール前最後の直線に差しかかったのは、蔵原走だったのだ。
「どうせ上位は黒人選手だよ」
そう囁きあっていた見物客も、先ほどの比ではないどよめきをあげた。うねるような歓
声が湧く。葉菜子も夢中で、「蔵原くん! 蔵原くん!」と呼びかけた。
走はなにも耳に入っていないようだった。
荒い息づかいが、葉菜子のまえを一瞬で過ぎ去る。走はまっすぐにゴールだけを見て、
短距離走かと思うほどのダッシュで、五十メートルを駆け抜けた。執念と闘志を感じさせ
る走りに、見物客はのまれた。
聖者が通ったかのように、ゴール前はいっとき静まり返る。
葉菜子はストップウォッチで確認した。走がゴールに走りこんだのは、スタートから五
十九分十五秒後のことだった。イワンキはその五秒後にゴール。走は、甲府学院大のエー
スに競せり勝ったのだ。
ざわめきがゴール前に満ちる。
「寛政大だったぞ。箱根では見たことのない学校なのに」
「ものすごい選手がいるじゃないか」
蔵原くんよ。まだ一年生の、蔵原走くんよ。葉菜子は周囲のひとに、言ってまわりた
かった。だが、そんな時間はなかった。後続の選手たちが、つぎつぎにゴール前の直線に
到達したからだ。
清瀬は十五キロを過ぎ、公園に入ったところで、予定どおりスパートをかけた。喜久井
大と東体大もほぼ同時にペースを上げたが、競り負けるつもりはなかった。
上り坂で加速したとき、右みぎ脛すねにわずかな違和感を覚えた。くそ、と思ったが、
息は乱さず、表情にも出さなかった。弱みに気づかれたらおしまいだ。いまは一秒が惜し
い。古傷など、気にしている場合ではなかった。
清瀬はためらわず、加速しつづけた。各応援部の演奏が渾こん然ぜん一いつ体たいと
なって、カオス的音階を奏でている。商店街の見知った顔がいくつか、コース沿いで叫ん
でいたようだ。だが、なにも聞き取れない。喜久井大の選手が一歩まえに出る。地面に足
裏が接触するたびに、脛に痺れを感じる。それでも清瀬は、引き離されまいとした。
「ハイジさん!」
走の呼び声を、たしかに聞いた。清瀬は最後の力を脚の筋肉に注ぎ、崩れこむように
ゴールした。邪魔にならない位置になんとか移動し、掌で脛に触れる。熱を持っていた。
喜久井大の選手と同着六位。タイムは六十分ちょうどだった。
走はゴールすると、係員に水の入ったペットボトルを渡され、急き立てられるように移
動を命じられた。ゴール近くにいると、あとから来る選手の妨げになる。
みんなはどうしただろう。心配で、ゴール横の木立の下でぐずぐずと様子をうかがっ
た。また歓声があがり、見物客の向こうに寛政大のユニフォームがちらっと見えた。清瀬
だ。
「ハイジさん!」
走は叫び、走り終わった選手が芝生広場へ抜ける小道に踊りでた。清瀬がうずくまって
いる。驚いて、走は走り寄った。
「大丈夫ですか」
息はそんなに上がっていないようだ。上位でゴールする選手には、実力が備わってい
る。自分のペースで余裕をもって、レースを走りきれるということだ。ゴール後に喘いで
動けなくなるようなことは、まずありえない。清瀬の呼吸を確認した走は、「脚ですね」
と判断した。
少しでも筋肉の負荷を減らすために、走はペットボトルの水を清瀬の脛にかけた。手を
貸すと、清瀬は立ちあがり、やや右脚を引きずるようにして歩きだす。
「走、よくやった」
清瀬の第一声は、走へのねぎらいの言葉だった。そんなこと言ってる場合ですかと、走
は泣きそうになった。
「はい」
とうつむくと、清瀬が笑って、走の髪をかきまわした。
「ほかのやつらを応援しよう」
「でも、すぐに脚を冷やしたほうが……」
「問題ない。行くぞ」
清瀬は見物客の隙間に入りこむ。走も「ちょっとすみません」とあとにつづいた。
ゴール前では八十位台のデッドヒートが繰り広げられていた。十人の合計タイムで結果
が決まるのだから、だれもが必死だ。
「双子だ、双子ですよ!」
走は団子状の集団のなかに、寛政大のユニフォームを発見した。コースを挟んだ反対側
で、葉菜子が飛び跳ねている。
ジョータとジョージはともに歯を食いしばり、ゴールした。つづいてユキ、ムサ、ニコ
チャンと神童が八十位から九十位台に入った。キングが健闘し、百二十三番目にゴール
だ。