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八、冬がまた来る(3)
日期:2025-06-27 16:59  点击:235

「五区は神童さんで決まりでしょ」

  と王子は言った。「上り坂が得意だもん」

「せっかくみんなで来たのに、僕だけが走るのかい?」

  さすがの神童も、これからつづく上り坂を思ってか、表情を曇らせる。

「全員で上る」

  と、清瀬が断言した。「襷をつないで目指す先を、見たくないのか。芦ノ湖だぞ?  東

京近郊における、最大の景勝地だぞ?」

「当日見るから、いまはいいって」

  と、キングが言った。

「当日は、見られないひとのほうが多いと思いますよ」

  走は首をかしげる。「俺たちは人手不足だから、走るだけじゃなく、中継地点での選手

のつきそいも、手分けしてやらなきゃならないだろうし」

「じゃ、再来年にテレビで見よっかなー」

  とジョージが悪あがきしたが、清瀬はもう聞いていなかった。

「はい、さっさと仕度する」

  箱根の山は、想像以上の難所だった。曲がりくねった上り坂が、永遠とも思われるほど

つづく。

  走は、清瀬と神童とともに、果敢に山を駆けのぼった。清瀬は神童に、距離を知るポイ

ントとなる場所や、走るときの注意事項を細かく教える。しかしほかのものたちは、隙を

見ては箱根登山鉄道に乗ろうとした。しまいには、歩くのと変わらない速度になってしま

う。

「ペースを維持して」

  と神童を先に行かせた清瀬は、「どうした、遅いぞ」と振り返った。走も足を止め、み

んなが追いつくのを待つ。渋滞して連なる車の窓から、人々が興味深そうに、ジャージ姿

の走たちを眺めていた。

  せっつくようにして、なんとか「最高地点」の標識がある場所まで到達した。

  箱根山中にある国道一号の最高点は、標高八百七十四メートル。そのあたりでは道幅も

広くなり、視野が開ける。すすき野原を海のように波立たせ、東京よりもずっと冷たい風

が吹き抜けていた。走はジャージのジッパーを首もとまで上げた。

  最高点から少し下ったところで、神童がみんなの合流を待っていた。

「おや、あれは……」

  と、ムサが顔をしかめる。そこにいたのは、神童だけではなかった。東体大のジャージ

を着たものが数人、たむろしている。寛政大と同じく、試走にきたらしい。そのなかに

がいるのを見て、いやだなと走は思った。

  竹青荘のメンバーがそろったところを見計らい、 はわざわざ近づいてきた。清瀬は知

らん顔をしたが、走は身構えた。双子をはじめとする二階の住人はもとより、ふだんは大

人の態度を崩さないニコチャンとユキまでもが、威嚇するように に向き直る。

   は、歓迎されていないことを気にするふうでもなかった。走のまえに立ち、友好的に

声をかけてくる。

「よう、蔵原。予選会ではすごかったじゃないか」

  走は拍子抜けした。挑発的ではない など、ひさしぶりだ。どう応対していいのかわか

らず、「ああ」と口のなかで答えた。

「今日は試走?  寛政も練習熱心だよな。お互い、本番では頑張ろうぜ」

   はにこやかに走を見上げてくる。どうしちゃったんだ、こいつ、と走は怪け訝げんに

思った。会えば突っかかってくるしか能がなかったのに、気色が悪い。だが、本戦に駒を

進めた寛政大を、認める気になったのかもしれない。走がいまも本気で走りに打ちこんで

いるとわかって、高校時代のわだかまりも溶けたのかもしれない。そうだとしたら、うれ

しい。

  走は、「うん」とうなずいた。一緒に走ったかつてのチームメイトだ。いつまでも棘と

げのある態度で接されるのは、走としてもつらいものがあった。

   は思わせぶりに、走の背後に立つ竹青荘の面々を見やった。

「本当に、練習熱心だよ。さっきも俺たち、噂してたんだ。自分が寛政の選手だったら、

どうするか、って」

「どうするって、どういう意味だ?」

   がなにを言いたいのか、走にはわからなかった。どのチームだろうと、練習して走り

つづけることに変わりはないだろう。

   は笑みを絶やさずに言った。

「どんなに練習したって、寛政は十人しかいないじゃないか。もし、一人でも風邪を引い

て出場できなくなったら終わりだ。万が一、本選で十位以内に入ってシード校になれたと

しても、四年生は卒業だろ?  来年度はどうするんだ?」

  走はふいを突かれた。竹青荘の住人たちと、箱根駅伝を目指す。自分の走りを追求す

る。そのことに夢中で、先のことなど考えてもいなかった。

  予選会のあとに入部希望者が現れ、清瀬が断ったことは知っている。入部希望といって

も、どこまで本気なのかはわからない。来年の春、また入部したいと言ってくる保証はな

いのだ。走たちが箱根駅伝でどんなに懸命に走っても、結果次第では、新入部員は望めな

いかもしれない。そうなったら、十人だけの寛政大チームは、一年かぎりで終わってしま

う。

   によって指摘された事実は、竹青荘の面々のあいだに静かな動揺を呼び起こした。双

子は明らかに表情を強張らせ、神童とムサとキングは不安そうに顔を見合わせる。ニコ

チャンとユキは、「余計なことを」というように、 を視線で黙らせようとした。疲れて

道ばたにしゃがんでいた王子だけが、我関せずとばかりにあくびをした。

   はやっぱり、俺を許してなどいない。竹青荘の住人に揺さぶりをかけるために、にこ

やかに近づいてきただけだった。

  そのことは走をいたく傷つけたが、しかしうなだれている場合ではなかった。このまま

ではまずい。心に揺らぎがあっては、箱根駅伝でいい走りなどできるわけがない。走はち

らっと清瀬をうかがった。清瀬は鉄仮面をかぶったみたいに、ひんやりとした無表情だっ

た。目だけで、「きみがなんとかしろ」と走に伝えてくる。

   が寛政大に含みのある物言いをするのは、俺がいるからだ。なんとか に反論しよう

と、走は必死に考えをめぐらせた。だが走が考えをまとめるよりも早く、 は「じゃあ

な」とチームメイトのところに戻っていってしまった。

  どうして俺は、なかなか言葉が出ないんだろう。走るだけなら、チーターだってダチョ

ウだって走る。動物並ってことじゃないか。走はがっかりし、次に悔しくなった。 に好

き放題言わせたまま、行かせてしまった自分に腹が立つ。

「ある意味ではマメなやつだな」

  ユキが感心したように を見送る。

「走が殴りかかろうとしなかっただけでも、進歩だ。よしとしよう」

  と、清瀬は鉄仮面のまま言った。

  本当だ、と走は思った。以前だったら、余計な口出しをする を、ただではおかなかっ

たはずだ。反論の言葉を探すのに気を取られ、殴るという手段があることを忘れていた。

走は、「殴ってやれば手っ取り早かったのに」と悔しさが増すと同時に、自分の変化に戸

惑った。


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06/29 11:00