「ごちそうさま」
双子は、使った食器を流しに下げた。そのまま自分たちの部屋へ戻ろうとする双子の背
に、清瀬が声をかける。
「たしかに俺は、頂点を取ろうと言った。でもそれは、優勝という意味で言ったんじゃな
いんだ。言い訳だと思うかもしれないが……」
「もういいよ」
とジョージが言い、双子は階段を上っていってしまった。清瀬の言葉を聞きたくない、
という意味にも、喧嘩はやめにして、いままでどおりに練習するから、という意味にも取
れる、拒絶と諦めのまじった声音だった。走は不発に終わった闘争心を持てあまし、むっ
つりと椅子に腰を下ろした。
「えーと、私も帰りますね」
気まずい空気に耐えかねたのか、葉菜子がそそくさと席を立つ。「ごちそうさまでし
た」
食器を片づけようとする葉菜子をとどめ、清瀬が「走」と呼ぶ。
「勝田さんを送ってあげろ」
いつもは双子が葉菜子を八百勝まで送るのだが、今夜はもう下りてきそうにない。「き
みも、夜風に当たって頭を冷やしたほうがいいだろう」
葉菜子は、「一人で帰れるから」と遠慮したが、走は「送る」と先に立って玄関でス
ニーカーを履いた。
台所ではユキとニコチャンが、
「勝田さんと夜道を二人きり」
「べつの意味で、走が頭に血をのぼらせなきゃいいがな」
と噂しあっていた。ムサも、
「そうですよ。葉菜子さんを取りあって、走と双子がまた喧嘩をしたらどうするのです」
と清瀬を責める。清瀬は、
「大丈夫だろう」
と軽く受け流した。「走はああ見えて、友情に篤い男だからな」
走はもちろん、自分が話題に上っていることなど露知らず、葉菜子の歩調に合わせて、
商店街への道をたどっていた。
走は、歩くということがほとんどない。歩ける距離なら、走ったほうがいい。大学へ行
くのも、商店街へ買い物に行くのも、走にとってはジョッグの一環だった。ふだんは瞬く
間に通りすぎてしまい、じっくりとあたりを眺めることなどない。
葉菜子と一緒に歩くと、あまりにもゆっくりすぎて間が持たなかった。外灯に照らされ
る表札を読んだり、道路に張りだして実をつけた蜜柑の枝を見たりと、視線をさまよわせ
る。葉菜子は薄手のコートを羽織り、薄紫のマフラーをしていた。あけびの色だ、と走は
思った。野山を駆けまわって遊んでいたころ、よく食べた。すごく薄めた砂糖水のような
味が、舌のうえによみがえる。
「ちょっと驚いたな」
と葉菜子が言った。口もとから、白い息がこぼれる。走は目をそらした。
「なにが」
「蔵原くんたちも、喧嘩するんだね」
「そりゃするよ。狭いアパートで共同生活して、いつも一緒に走ってるんだ。風呂の汲み
桶にお湯を残したままにするなとか、練習のあとに脱いだ靴下の臭いを嗅ぐなとか、
しょっちゅうだれかが喧嘩してる」
「靴下の臭い?」
葉菜子はちょっと笑った。「だれがそんな変なことするの?」
ジョージだった。しかし走は、葉菜子の恋心に水を差すのは悪いと思い、
「それは言えない」
と答えた。これじゃあ俺が嗅いでるように思われるんじゃないかな、と不安を覚えた
が、しかたがない。
「なんとなく、長距離をやってるひとって、寡黙で気の長いひとが多いのかと思ってた」
「そうかな。俺はカッとなりやすいし、双子やキングさんはうるさいぐらいだ」
「蔵原くんは、大人っぽいほうだよ。竹青荘のひとはみんな、穏やかで優しいと思う。
やっぱり、長い距離を毎日淡々と走るには、我慢強い性格が向いてるのかな」
葉菜子は、白線のうえに転がっていた小石を蹴った。「だから、喧嘩するんだー、って
びっくりしたけど、安心もした。すごいスピードで二十キロとかの距離を走って、今度は
箱根駅伝に出るんだもん。どんどん遠くなっちゃうなあと思ってたから」
ああ、と走は思った。このひとは本当に、双子のことが好きなんだ。
こっそりと自分の胸もとに触れてみる。なんだろう。冷たい飲み物が歯に染みるときみ
たいに、ヒーヒーする痛みが心臓にある。周囲をじんわりと腫れあがらせ、熱を持ってい
るような痛みが。
公園のある角を折れ、商店街に入った。道の両端に立つ街灯からは、偽物の紅葉がぶら
さがって風に揺れている。一日の仕事を終え、すでにシャッターを下ろした店が大半だっ
た。人通りの途絶えた商店街を、走と葉菜子は無言で歩いた。
半分だけシャッターの下りた小さな本屋から、高校生らしき三人の男たちが走りでてき
た。それぞれ、大きなスポーツバッグを肩から斜め掛けしている。彼らはいっせいに、祖
師ヶ谷大蔵の駅を目指して駆け去っていった。つづいて、店番の老婦人が道に飛びでてく
る。
「こら待て、万引き犯ー!」
老婦人は叫んで追いかけようとしたが、つっかけのサンダルでは、若い男の脚にはかな
いようもない。老婦人は、驚いて立ちすくんでいた走と葉菜子を見た。とても期待に満ち
た眼差しだった。
葉菜子は我に返ったらしい。
「蔵原くん、つかまえて」
「え、俺が?」
「早く早く!」
高校生たちは五十メートルほど先を行っているが、商店街はずっと直線だから、姿はま
だよく見えた。走はダッシュする。高校生たちは、老婦人は追ってこられないと踏んで、
安心していたのだろう。速度を落としていたが、走の足音が迫ってくるのに気づき、「や
べっ」と再び一心不乱に逃げはじめた。
しかし、重そうなバッグを抱えているし、所詮は素人だ。走はすぐに、彼らを射程圏内
に収めた。後ろから走りを観察し、「つかまえようと思えば、いつでもつかまえられる
な」と考える。
でも、相手は三人だ。走一人で飛びかかっても、捕り逃がしてしまうやつらが出るだろ
う。殴りかかってこられて、いまの時期に暴力沙汰になるのもまずい。
逃げるのを諦めてもらうのが、一番いい。走はそう判断し、三人の後ろにぴったりとつ
いた。
「あのさ」
と走りながら声をかける。三人はぎょっと振り返り、慌ててスピードをあげた。だが走
にとっては、亀が早足になった程度のものだ。