日语学习网
八、冬がまた来る(8)
日期:2025-06-27 17:00  点击:229

「俺、このペースならあと三十キロは、楽にあんたたちのこと追いかけられるんだけど」

  息も乱さず話しかけてくる走に、

「なんなんだよ、おまえ」

  と、高校生の一人がおびえたように言った。走はその質問には答えず、説得を試みる。

「だから、もうやめろよ。謝って、本屋のばあさんに許してもらえ」

  駅が見えてくる。同時に、駅前の交番から制服を着た警察官が二人、こちらに向かって

駆けてくるのも見えた。

「止まりなさい!」

  と警察官は叫び、正面から抱えこむようにして、高校生二人をつかまえた。走もしかた

なく、残りの一人の腕をつかんだ。

「鞄を開けて」

  高校生たちは観念したのか、警察官の指示におとなしく従う。スポーツバッグのなかに

は、盗んだ漫画が大量に入っていた。読むためではなく、売るために盗とったのだろう。

王子さんが見たら大激怒するな、と走は思った。

「きみ、お手柄だったね。そこの交番まで、一緒に来てくれ」

  若い警察官が、帽子の下からにこやかに言った。走は、「いえ、俺は」と言ったが、警

官は二人、万引き犯は三人だ。高校生の腕をつかんだまま、ついていくしかなかった。

「蔵原くーん」

  呼ばれて振り向くと、自転車を猛然と漕いで、葉菜子がやってきた。後ろの荷台には、

本屋の老婦人が乗っている。葉菜子が携帯電話で通報し、それが交番に伝わっていたよう

だ。二人乗りはまずいんじゃ、と走は思ったが、警察官たちは見て見ぬふりをしてくれ

た。

  荷台から下りた老婦人は、

「あんた、箱根駅伝に出る選手なんだってね。おかげで助かったよ」

  と走に礼を言った。高校生たちはパトカーで、地元の警察署に連行されることになっ

た。調書を取るので、老婦人も同行していった。

「きみも署まで行ってくれないか。感謝状が出るかもしれないし」

  と恐ろしいことを言われ、必死に固辞する。交番の警察官は残念そうだったが、走はろ

くに名前も告げず立ち去った。葉菜子が自転車を引いて、ついてくる。

「すごかったね、蔵原くん。本屋のおばあさん、万引きが多くて困ってたんだって。追っ

かけてくれるなんて、ってすごく感謝してたよ」

  走はうつむきがちに歩いた。いいことをしたつもりはない。ただ、走るのが得意だった

だけだ。葉菜子が「つかまえて」と言ったから、追いかけただけだ。フリスビーを追う犬

の反射と同じ。

  葉菜子は自分のことのように、走の活躍を喜んでくれている。走は息苦しくなった。

「俺にはよくわからない」

  走はとうとう、低い声で葉菜子に言った。「俺も万引きしたことあるよ。べつにいいと

も悪いとも思わない。よくわからないんだ」

  葉菜子がびっくりしたように自分の横顔を見上げているのを、走は感じた。

「走ること以外は、すぐにどうでもよくなる。腹が減ったら万引きするし、腹が立ったら

ひとを殴る。あんたは、ハイジさんたちを穏やかで優しいと言ったけど、少なくとも俺は

ちがうよ。双子の言ったとおり、走るだけの……」

「動物なら、善悪がわからないなんて、悩んだりしないでしょ」

  葉菜子は静かに言った。「蔵原くんは、自分に厳しすぎるよ。本屋のおばあさんは、蔵

原くんに感謝してる。竹青荘のひとたちは、蔵原くんの走りにいつも期待と信頼を寄せて

いる。それをもっと信じたっていいじゃない」

  八百勝のまえまで来ると、「送ってくれてありがとう。またね」と葉菜子は笑顔で手を

振った。葉菜子の姿が八百勝の通用口に消えるのを、走は見守った。葉菜子につられるよ

うにあげていた手に気づき、耳が熱くなる。

  周囲の人間を信じろ、と勝田さんは言った。そういえばハイジさんは以前、「自分を

もっと信じろ」と言っていたっけ。二人が言いたいのは、結局のところ同じことのような

気がする。

  また双子と喧嘩しちゃったな、と走は思う。東体大の とも、高校時代の陸上部の監督

とも、わかりあえなくて激しく衝突した。走はすぐに頭に血がのぼってしまう。走ること

は、走にとって大切な行為だ。走の持つほとんどすべての時間が、走ることに費やされて

いる。だからこそ、走りに関することで意見が食い違うと、過剰に反応してしまう。走と

いう存在そのものを否定された気持ちになるからだ。

  でも、それじゃ駄目なんだ、と走は思った。怒りは、怯えと自信のなさの裏返しだ。

「信じろ」と言う清瀬と葉菜子は、「恐れずに認めろ」と走に言いたいのだろう。自分自

身を、相手を。

  ただ走るだけでは、強くはなれない。俺は俺を制御しなきゃならない。言葉をつくして

心を伝えようとしてくれる、ハイジさんや勝田さんのように。走は改めて、そう決意し

た。

  竹青荘までの道のりを、走は走って帰った。

  翌日の午後、読売新聞社の社会部の記者がやってきた。本屋の老婦人が、走のしたこと

にいたく感激して電話をかけたらしい。新聞社は、箱根駅伝の宣伝にもなると判断し、

「ちょっといい話」として紙面を割くことにしたのだ。

  双子は喧嘩したことも忘れ、「すごいよ、走」と喜んだ。王子も、「書店での万引き

は、根絶されなきゃいけない犯罪だ」と、走の手柄をたたえる。ユキは、「せっかく勝田

さんと一緒だったのに。万引き犯をつかまえるより先に、することはなかったのか」と走

をからかった。

  走は断りきれず、記者の取材を受けた。記事は、「箱根駅伝出場の寛政大選手、万引き

犯をつかまえる」という見出しで、走の顔写真とともに掲載された。

  十一月の中旬になり、人々が厚いコートを着はじめるころ、上尾シティハーフマラソン

が開催された。

  上尾運動公園陸上競技場には、マイクロバスで次々と、招待された大学の選手が乗りつ

けた。竹青荘の面々は、いつもどおり白いバンで、上尾市に到着した。この日は、胃潰瘍

で自宅療養がつづいていた大家も同行した。あいかわらず、清瀬の運転する車には乗りた

がらないので、葉菜子が八百勝の軽トラックを出した。

  競技場は、ローマのコロセウムのような外観をしていた。その通路にビニールシートを

敷き、各大学が着替えや休憩のための場所を確保する。

  運動公園内には食べ物の屋台が建ち、お祭りムードが漂っている。見物客や出場者で、

公園の周辺はにぎわっている。

  大家はさっそく購入したたこ焼きを ばりながら、訓示を垂れた。

「今日は、ロードレースの雰囲気に慣れるのが目的だから、スピードは重視しなくてい

い。苦しくない程度に走るように」

  そこで大家は、清瀬をちらっと見る。清瀬は、そのとおり、というようにうなずいた。

走は「なるほど」と事情を察した。大家は、清瀬の指示をそのまま走たちに告げたにすぎ

ない。竹青荘の住人たちのあいだで軋あつ轢れきが生じているので、清瀬は一歩引いた立

場を取ることにしたらしかった。



分享到:

顶部
06/29 10:56