「蔵原くんは、高校二年のときにインターハイに出場して、好成績を収めてるね。でも、
三年になってすぐに退部している。それはどうして?」
「ちょっと!」
と清瀬が憤ったが、走は「いいんです、ハイジさん」と押しとどめた。逃げたり隠した
りすることはできない。陸上をつづけるかぎり、この件は走にまとわりついてくる。竹青
荘の住人たちと箱根を目指すと決めたときから、覚悟はしていたことだった。
「もう調べてあるんでしょう?」
と走は言った。「俺が監督を殴ったからです」
「監督は鼻の骨が折れたそうじゃないか。しかもきみは、陸上で推薦が内定していた大学
を蹴り、部もやめてしまった。不祥事が表沙汰になるのを恐れた監督が、事件を内々に済
ませようとしたのにもかかわらず、だ」
望月は走の表情をうかがう。「なにがそんなに不満だったのかな? 監督とどういう仲
違いがあったの?」
走は黙っていた。高校時代の監督は、徹底した選手管理と、スパルタ練習法で有名だっ
た。もちろん、それに応じた実績もあげていたから、有能な監督であることにはまちがい
ない。
だが走は入学当初から、その監督とはそりが合わなかったし、タイムのことばかり口に
するやりかたが気にくわなかった。
だから、故障して再起が難しくなった一年生を、監督が部室で罵ののしっているのを目
撃したとき、頭に血が上ってしまったのだ。その一年生はスポーツ特待生で、部をやめさ
せられたら、学校にいづらくなる。一年生が弱い立場にあることをわかったうえで、監督
がねちねちといたぶっているとしか、走には思えなかった。
それも、あとから考えてみれば、ということかもしれない。一年生のことは、走にとっ
ては単なるきっかけだった。たまりにたまった鬱憤を爆発させるための、いい起爆剤にす
ぎない。なぜなら監督を殴った瞬間、走の頭を占めていたのは、「これで終わりにでき
る」という思いだけだったからだ。
一年生のために、というヒロイズムは欠片かけらもなかった。自分がきっかけで先輩が
監督を殴ったりしたら、その一年生が部内でどんなに肩身の狭い思いをすることになる
か、ということも、考えもしなかった。正義感も思いやりもなく、ただ暴力を振るっただ
けだ。自分の満足と快感のために。積もりに積もった監督への苛立ちと怒りを、晴らすた
めだけに。鼻の軟骨が折れる感触が拳に伝わって、走はせいせいしたのだった。
「高校の部活動で暴力沙汰。しかも陸上の名門校だ。話が漏れ、きみも否定しなかったた
めに、仙台城西高校陸上部はしばらく自主的な活動停止状態に入った。当時の関係者のな
かには、きみをよく思わないひともけっこういるんじゃないかな。殴られ損の監督はもち
ろん、試合に出られなかったチームメイトとかね」
「蔵原になにを聞きたいんですか」
と清瀬が割って入った。「あなたがおっしゃったことが事実だとしても、むしろ問うべ
きは、ことなかれ主義の学校側の姿勢、ひいては、過度の束縛と干渉で選手を管理し、の
びざかりの才能をつぶしかねない、高校陸上界の一部に蔓延する成果至上主義だと思いま
すが」
「きみが寛政大の主将かい?」
望月は清瀬に、値踏みするような視線を向けた。「きみは、蔵原くんが暴力沙汰を起こ
したことを知っていた? 蔵原くんをどう思う」
「才能のある選手です。それ以前に、俺たちにとっては、人間的に信頼のおける仲間だ」
仲間という言葉に、走の心は揺らいだ。幸せな夢を見ている途中で、急に肩をつかまれ
て起こされたみたいに。まだ夢のつづきにいるような浮遊感と、現実に還ってきたことを
残念に思う気持ちと、親しいひとの顔が開けた目に映った安堵と。いろいろな感情が湧き
あがって、どう受け止めればいいのかわからずにたじろいだ。
わずかに動揺した走には気づかぬまま、清瀬は望月に対して一歩も引こうとしなかっ
た。
「帰ってください。取材は広報を通してもらいたい」
広報? 背後で成り行きを見守っていた竹青荘の住人のあいだで、ざわめきが広がっ
た。神童と葉菜子が、「はい」「私たちのことです」と手をあげる。
「取材の申し込みをお断りします」
と神童が言い、キングが「そうしろ、そうしろ」とうなずく。大家はなにも口を挟ま
ず、弁当を食べている。事態を厄介に感じているのか、おもしろがっているのか、飄然と
したその態度からはうかがえない。
「まったく、バナナがまずくなった」
と、ニコチャンに非難の眼差しを送られ、望月は苦笑いした。
「じゃ、最後にひとつだけ。蔵原くんは、今度箱根を走るわけだよね。高校のときの監督
に言いたいことはあるかい? ざまあみろでも、なんでもいいんだけど」
「なにもありません」
走は静かに首を振った。謝る気はなかったが、「おまえなんかの世話にならなくても、
実力があれば陸上界で生き抜いていけるんだ」と勝ち誇る気も、当然なかった。
「俺は後悔しています。あのとき、ぶちのめす以外の方法を、少しも思い浮かべられな
かった自分を。それだけです」
翌週発売になった『週刊真実』に、「高校スポーツ界に異変アリ!?」という見開き記事
が載った。「頻発する不祥事の裏になにが……」と煽あおりがついていて、甲子園常連校
や高校サッカーの強豪校に混じって、仙台城西高校陸上部の、かつてのいざこざにも触れ
てあった。
「先日、万引き犯をつかまえ、話題になったKくん。来年正月の箱根駅伝にも出場する、
将来を嘱望されている選手だが、Kくんも過去に暴力事件を起こしたという噂がある。仙
台J高の陸上部監督は、『その件については、もう過ぎたことですし……』と思わせぶり
に口を閉ざすが」云々と書かれては、陸上関係者ではなくとも、寛政大の蔵原走のことだ
と、簡単に推測がつく。
「これって明らかに、監督本人がリークしたんじゃない」
ジョージが忌いま々いましげに、雑誌を放り投げた。ムサは、
「気にしないことですよ」
と走を気づかってくれた。
清瀬と神童は、大学側や後援会への説明と対応に追われた。大家もほうぼうで、「お騒
がせして」と頭を下げてまわっているらしい。それを知った走が謝ると、「なあに、監督
だから当然だ」と大家は胸を張った。走を責めるようなことは、なにも言わなかった。
清瀬が断固として、走を守る姿勢を貫いたので、竹青荘の周辺は平穏なままだった。記
事の反響は、このまま沈静化するだろうが、迷惑をかけたことに変わりはない。
竹青荘の住人たちは、いままでどおりの態度で走に接してくれる。その思いに応えるた
めには、箱根でいい走りをするしかない。走は黙々と走りこみをつづけた。
その夜は飲み会も兼ねて、清瀬から箱根駅伝のエントリーについて説明がある予定だっ
た。練習とジョッグを終え、住人たちは双子の部屋に続々と集まってきていた。