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九、彼方へ(1)
日期:2025-06-27 17:03  点击:271

九、彼方へ

  一月二日、午前七時四十五分。

  東京箱根間往復大学駅伝競走のスタートが、十五分後に迫っていた。

  スタート二十分前の点呼を済ませ、王子は再び、地下鉄の通路に下りようとする。もっ

と朝早い時間帯には、地上の歩道を走って体をほぐすことができた。いまは無理だ。東京

大手町にある読売新聞東京本社ビル前には、箱根駅伝のスタートの瞬間を見ようと、大勢

のひとが詰めかけていた。

  各大学の応援部、関係者、晴れやかな表情で正月を迎えた駅伝ファンたちは、読売新聞

本社ビルから、皇居内堀沿いに和田倉門あたりまで、途切れることなく歩道に何重にも人

垣を作っている。鳴り響く太鼓と各校の校歌。冷たいビル風になびく色とりどりの旗と

幟。高まる興奮とざわめき。

「どこに行くんだ」

  と、つきそいの清瀬が王子を引きとめた。「もう体は温まっただろう。レースがはじま

るまえに疲れてどうする」

「そうですけど、走ってないとなんだか不安で」

  王子は足踏みした。「こんなに観客がいるとは思ってなかったし」

  王子の口から、「走っていないと不安」などという言葉を聞く日が来るとは思わなかっ

た。清瀬は安心させるように笑ってみせた。

「きみは充分に練習してきた。大丈夫だ。トイレには行ったか?」

「何度も」

  選手と関係者のために、読売新聞社の通用口が開放されていて、トイレを借りたり控え

室で着替えをしたりできるのだ。「一区を走る選手で、いつ行ってもすっごく混んでるん

ですよ」

「緊張してるのは、きみだけじゃないってことだ。心配はいらない」

  ビル風で体が冷えてはいけない。清瀬は王子を、新聞社のビルの裏手につれていった。

ここならひとが少ない。清瀬と王子は、並んで軽く走った。

  ビルの壁には、午前七時に発表になった、最終エントリーが貼りだされていた。

「六道は、藤岡さんを二区に起用しなかったね」

  王子が不思議そうに首をかしげる。六道大は、区間エントリーで藤岡を補欠枠にまわし

た。藤岡は主将で、六道でも一番の実力の持ち主だ。故障したという噂も聞かないし、体

調でも悪いのか。各大学が注目するなか、今朝の往路最終エントリーにも、藤岡の名はな

かった。

「たぶん、九区か十区に入れるつもりだろうな」

  と清瀬は言った。

  六道大は、慎重に状況を見極めようとしているようだ。今回の大会で、六道大の連覇を

止められるものがいるとすれば、それは房総大だと目されていた。房総大は区間エント

リーで、往路に勝負をかける姿勢を明確に打ちだしてきている。

  房総大の精鋭ばかりをぶつけられては、いくら六道大といえども、往路は相当厳しい戦

いになるだろう。もしかしたら、往路の優勝は房総大に譲り、復路優勝および往復の合計

タイムで決まる総合優勝を手にする作戦なのかもしれない。六道大が、芦ノ湖についたと

きの順位、房総大とのタイム差によって、藤岡を復路のどの区間に投入するか決めようと

しているのは、まちがいなかった。

「だがいまは、六道大のことなんか考えるな」

  清瀬は王子の肩を軽く押しやった。「そろそろスタート地点に戻ろう。俺が言ったこ

と、覚えてるな?」

「うん」

  王子は力強くうなずき、膝下まである厚手のベンチコートを脱いだ。寛政大の黒と銀の

ユニフォームを着た王子に、集まっていた見物客たちは道を明けた。

  もう寒さは気にならない。第一走者である王子の左肩から、襷たすきがかかっている。

黒地に銀糸で「寛政大学」と刺 してある襷。左官屋の奥さんが、予選会を通過したとき

から、コツコツと作ってくれていたものだ。

  大切な襷に、王子はそっと触れた。十人でつないで、明日またこの場所に戻る。絶対に

途中で襷を途切れさせたりはしない。

  走るときに邪魔にならないよう、清瀬が襷の余った部分を王子の短パンのウエストに挟

み、長さを調整した。

「王子、今日まで無理につきあわせてすまなかった」

  と清瀬は言った。応援部の奏でる音楽がいっそう大きくなる。「選手はスタートライン

について」と、係員の呼ぶ声がする。

「ハイジさん。僕はそんな言葉を聞きたいんじゃないよ」

  王子は笑った。「鶴見で待ってて」

  王子はベンチコートを清瀬に預け、一区を走るほかの十九人とともに、スタートライン

に立った。

  東京大手町、午前八時。快晴。気温一・三度。湿度八十八パーセント。北西の風一・一メー

トル。

  一瞬、あたりが静まり返り、スタートの号砲が鳴った。

  王子は走りだした。振り返る必要はない。寛政大学のはじめての箱根駅伝は、この道を

進むことによってだけ作られていくものなのだから。

  レースは清瀬の読みどおり、ゆっくりしたペースで展開した。左手に東京駅を見なが

ら、和田倉門前を過ぎる。見物客の歓声がうねり、ビル風とともに後方にちぎれ去ってい

く。一団は横に広がったまま、湿った路面を進んだ。一キロ三分〇七秒ペースだ。これな

ら王子もついていける。

  幅の広い道路のせいか、走っても走ってもあまり進んでいないように感じられた。周囲

では、だれが一番先に飛びだすのか、様子をうかがいあい、牽制しあう気配がしている。

「このままゆっくり行け」と王子は念じた。

  ビルの隙間を吹き抜ける風のせいで、気温よりも体感温度が低い。王子は清瀬の言いつ

けを思い出し、帝東大のやや大柄な選手の後ろについた。場所取りで余計な体力を使って

は、ただでさえスピードにハンデのある王子には不利になる。風をしのげる好位置を確保

し、王子はとにかく集団についていくことに専念した。

  芝五丁目の交差点から第一京浜に入っても、ペースはほぼ変わらなかった。五キロの通

過が十五分三十秒だ。

  各大学の監督は、それぞれ監督車に乗って選手の後方からついてきていた。入いりの一

キロとラスト一キロ、そして五キロごとに、スピーカーを通してマイクで選手に声をかけ

ることが許されている。だが、五キロ通過地点までで指示を出す監督はいなかった。うか

つに声を出せないほど、集団には緊張感があった。


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06/29 06:16