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九、彼方へ(2)
日期:2025-06-27 17:04  点击:260

  六道大と房総大の選手が主導権争いをしているが、スパートをかけようとしては、再び

集団に飲みこまれることの繰り返しだ。一区は二十一・三キロあり、しかも箱根駅伝ははじ

まったばかりだ。ここでスパートに失敗してバテては、あとの区間を走るものに迷惑がか

かる。思いきってしかけられない心理が、集団のなかに渦巻いていた。

  王子は先導車もテレビカメラの存在も忘れ、夢中で、しかし余裕の表情を装って、必死

に前進した。

  そのころ清瀬は、東京駅からJRで品川に出て、京浜急行に乗りかえたところだった。

王子のベンチコートを抱え、ラジオのイヤホンを耳につっこむ。テレビの音声を拾った清

瀬は、まだ集団がばらけていないと知って、「よし!」と小さく叫んだ。周囲の乗客から

注目を浴びるが、気にしていられない。

  テレビのアナウンサーと解説者が、スローペースに困惑したように話している。

「レースにまったく変化がありませんね」

「力のある選手はもっと積極的に、記録を狙うつもりでしかけていってもいいと思うんで

すが」

「余計なことを言わなくていい」

  清瀬は思わず毒づく。スローペースでいいんだ。だれもしかけるな。できるだけこのま

ま、集団で行ってくれ。

  携帯が鳴った。表示を見ると、監督車に乗っている大家からだ。王子が脱落しはじめた

のかと、清瀬は急いで通話ボタンを押す。

「どうしたもんかなあ、ハイジ」

  と、大家はのんびりと言った。

「どうしました」

「もう少ししたら十キロなんだが、俺は王子になんと声をかければいい?」

「つらそうなんですか」

  清瀬は携帯電話を握りしめた。

「いいや?  さっき八やツつ山やま橋ばしを過ぎたが、よく食いついていってる。あいか

わらず、集団は横一線のままだ」

「じゃあ、なにも言わなくていいでしょう」

  八ツ山橋は八キロ地点手前だ。線路を高架で越えるため、ゆるやかなアップダウンがあ

る。そこを過ぎてまだ横一線なら、一区の最大の難所、六ろく郷ごう橋ばしまではこのま

ま行くはずだ。王子、耐えろ。清瀬は心のなかで呼びかけた。

「しかし、黙って車に乗ってるばかりってのは、監督としてどうだろう」

  大家は退屈しているようだ。「これじゃ俺は、箱根までドライブしてるみたいなもん

だ」

「どっしり構えていてくださればいいんです。王子がつらそうになったら、励ましを」

「なんて?  校歌はだめだぞ。俺は音痴だ」

「いまどき、校歌で選手を励ます監督はいませんよ」

  清瀬はため息をついた。「じゃあ、俺からの伝言を頼みます。『きみに伝えたいことが

ある。だから、這はってでも鶴見まで来い』と」

  王子がその伝言を聞いたのは、十五キロ地点でのことだった。マイクを手にした監督車

の大家が、ダミ声で怒鳴ったのだ。

  伝えたいこと?  聞いてやろうじゃないか。

  呼吸は苦しくなってきていたが、王子は再び気持ちを奮い立たせた。給水を受け取るこ

とにも成功し、その際に短距離陸上部員から、「この一キロ、三分ちょうど」という情報

を得た。ペースが上がっている。やはり、勝負は十七・八キロ地点にある六郷橋だ。

  十二キロ過ぎにも、レースが動きそうな局面があった。ユーラシア大の選手がしかけ

て、集団が縦に長くのびかけた。だが、六道大と房総大がすかさずついていき、ほかのも

のも引きずられるように追いかけた。結局そこでは、集団から脱落するものはだれもいな

かった。

  こうなったら、六郷橋ですべてが決まる。全員が暗黙の了解のうちに、そう考えている

ことがわかった。

  六郷橋は多摩川にかかる、全長四百四十六・三メートルの大きな橋だ。橋に差しかかるた

めの上り坂と、橋から下りるための下り坂がある。二十キロ近く走ってきたところでの

アップダウンだから、体力的にきつい。

  いよいよ六郷橋の坂を上りはじめると、急に脚が重くなった。こんなに傾斜をきつく感

じるなんて。王子はあえぎ、腕を振ってなんとか体を進めようとする。

  そのとき、集団のリズムに変化が生じた。力のある選手の呼吸が、ふと静かになり、

「来る」と王子が気づいた瞬間、横浜大の選手がスパートをかけた。房総大、六道大の選

手があとにつづく。

  集団はあっというまにばらけ、縦にのびた。あいつら、なんて体力なんだ。王子は呆然

と、どんどん後続との距離を離していくトップ集団を見送るしかなかった。ついていきた

くても、とても無理だ。六郷橋の下りに入り、トップ集団はますますスピードに乗ってい

る。

「あせるな。六郷橋までついていけたら、タイム差はそんなに出ない。あとは自分のペー

スで走りきることを考えろ」

  スタート前に、清瀬から指示されたことが脳裏に蘇る。

  そうだ、僕はまだ陸上をはじめたばかりなんだ。他人がどんなスパートを見せようと、

自分の全力で走っていくしかないじゃないか。

  先頭の選手の姿からは、もう百メートルほどの距離がある。でも王子は諦めず、悲観せ

ず、辛抱強く走った。

  はじめたばかり、だって?  じゃあ僕は、これからも陸上をつづける気でいるのか。巻

きこまれて、こんなに苦しい思いをしてるっていうのに。

  王子は酸素を求めて口を開け、呼気にまぎれて小さく笑った。

  正面から、柔らかくあたたかい朝日が射した。

  鶴見中継所で、走かけるとムサは身を寄せあい、携帯テレビの液晶画面に見入ってい

た。商店街の電気屋が、無償で貸しだしてくれたものだ。

「ああ、王子さんが引き離されました」

  ムサが悲しそうに言い、画面から消えていく王子を少しでも長く見ていたいとばかり

に、走の手のなかのテレビを覗きこむ。

「でも、トップとのタイム差はそれほどないはずです」

  王子の勇姿をしっかりと目に焼きつけ、走は顔を上げた。「ムサさん、二区で追いあげ

ましょう」

「はい。頑張ります」


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06/29 06:05