「はーい、こちら監督車」
「五キロでムサに、ちゃんと伝えてくれましたか?」
「こわい声出すない、ハイジ。伝えた、伝えた、伝えました。でも聞きやしないんだか
ら、しょうがないだろう」
「十キロ地点でもう一度、抑えるよう声をかけてください」
電話を切った清瀬は、座席の硬い背もたれに後頭部を預けた。眉を寄せ、まぶたをきつ
く閉ざしてため息をつく。
「完全に雰囲気に呑まれてる」
走は背もたれに手を載せ、わずかに身をかがめて、車窓を流れ去る景色をたしかめた。
「今日は風がなくてよかったですね。まだ海は見えないな」
清瀬が目を開け、「なにをのんきなことを」というように見上げてくるのがわかった。
「ムサさんはきっと、手遅れになるまえに気づきますよ。信じましょう」
走は窓の外を見たまま言った。清瀬はまたイヤホンを片耳に押しこみ、
「それしかないな」
とつぶやいた。
箱根駅伝十区間中、鶴見から戸塚に至る二区は、二十三キロという最長の距離を誇る。
しかも十四キロ過ぎからは、一・五キロも上りがつづく権太坂が控えていた。権太坂を越
えても細かいアップダウンがあり、二十キロからのラスト三キロに、再び上り坂が来る。
二十三キロという距離といい、終盤になっての起伏の多さといい、「花の」と形容され
るにふさわしい、難度と派手さを兼ね備えたコースだ。ランナーは、総合的な走力はもち
ろんのこと、プレッシャーと苦しさをはねのける強靭な精神力と粘りを要求される。レー
ス展開を読むクレバーな頭脳と、コースの起伏にあわせて走りを切り替える器用さも必須
だ。
ムサは、横浜駅過ぎまでの比較的平坦な道のりを、順調にリズムに乗って走った。その
勢いのまま権太坂に突っ込んでいき、上りはじめて四秒経ったところで、「あ、権太坂」
と気がついた。重りをつけたように、脚が進まなくなったからだ。
併走していた城南文化と動地堂の選手との差が、どんどん開いていく。ムサもあわてて
ついていこうとして、それが不可能なことを悟った。
私はなにをしていたんだろう。冷たい風が顔に当たっていることを、ムサはようやく自
覚した。ぴったりしたアームカバーが、汗を吸収していつのまにか湿っていた。
どうやら頭に血がのぼっていたようです。開けた掃きだし窓から、カーテンを揺らして
部屋に風が通ったときのように、周囲の様子がムサの目と耳に飛びこんできた。国道一号
沿いにぽつぽつと建ち並ぶ、小さな個人商店。途切れることのない壁を作る見物客の、大
きな歓声。平和な正月の、郊外の風景だ。
鶴見中継所で、走とテレビを見たではないか。二区を走るうちの十一人が、一万メート
ル二十八分台のタイムを持っている。城南文化と動地堂の選手もそうだ。あの二人にまと
もについていこうとしても、自滅するだけだった。
選手のタイムから結果を推測しやすい競技に、なんの面白味があるのか、と双子は言っ
た。でもそれはちがいます。ムサは思う。実力差が、タイムという単純な数値で明確にな
りやすいとしても。これはトラック競技ではなく、駅伝だ。襷を渡され、次につなぐため
に、私はいま走っている。平坦なトラックをいっせいに走りだす一万メートルとは、わけ
がちがう。この起伏ある二十三キロは、東京と箱根を往復するうちの、たった十分の一に
すぎないのだ。十人で作りあげる巨大なレースの、ほんの一部分だ。
これから先の未知の展開を導きだす、二区は序章にすぎない。私は気負わず、序章にふ
さわしい走りをすればいい。つまり、冷静に、堅実に、少しでも順位を上げること。ス
ピードではかなわなくても、じっくりとレースを読み、好機をうかがうこと。
まずは、十五キロ地点でしっかり給水しよう、とムサは考えた。寒い寒いと思っていた
けれど、ハイペースで走ってきたこともあって、かなり汗をかいている。それから……、
そうだ。ムサは、清瀬から与えられていた注意を思い出した。
「権太坂の下りは、慎重に行け。上りは、それまでが順調に走れていれば、リズムのまま
進んでいくことができるだろう。だが、だからといって下りも調子づいて突っ込むと、確
実にへばるぞ。権太坂の下りでは、やや抑え気味にして体力を温存する。二区の本当の勝
負どころは、ラスト三キロの上り坂だ。そこまで我慢して追っていけ」
わかりました、ハイジさん。ムサは一人うなずき、黙々と権太坂を上っていった。権太
坂最高点は、海抜五十六メートル。横浜駅前は二・五メートルだから、五十メートル以上を
一息に駆けあがることになる。
最高点の手前が、十五キロ地点だ。給水のゼッケンをつけ、寛政大のジャージを着た短
距離部員が、ムサに大会支給のドリンクボトルを掲げてみせた。
「いま十八番目。まえに七人固まってる。行けるぞ」
併走したわずかなあいだに、手際よく情報を伝えてくれる。ムサはうなずき、口に含む
ようにしてゆっくりと水分を補給した。腹が重くならない程度に飲み、ボトルを道路の脇
に投げ捨てる。
十八番目ということは、無我夢中で走っているあいだに、帝東大以外にもう一チーム抜
いたらしい。給水係は七人固まっていると言ったが、そのうちの二人は、城南文化と動地
堂だろう。彼らはきっと、もっとまえに行ってしまう。残りの五人は、はたしてどのチー
ムか。
権太坂のゆるやかな下りを利用して、ムサは前方を透かし見た。ゴボウ抜きを演じる動
地堂大の選手をとらえるために、中継車が一台ついている。十五キロ地点での指示を与え
るため、各校の監督車の動きもあわただしい。車が邪魔でよくわからないが、たしかに何
人かが競りあっているようだ。
ムサはややセンターラインに寄り、角度をつけた。車の陰から、ユーラシア大の緑と白
の縦縞のユニフォームが見えた。
ユーラシア大? たしか、鶴見中継所を四位で出発したはずですが。
ムサはここではじめて、順位に大きな地殻変動が起きていることを悟った。
こんなに後方まで下がってきているということは、走りに余裕がない証拠だ。体調不良
か、プレッシャーか、とにかくリズムに乗れていないのだ。
中継車はどんどん遠くなっていく。動地堂と城南文化が、集団から抜けだしたのだろ
う。残りの五人に追いつくことは可能だ。ムサはそう判断した。追い越すこともできる。
あせらず、少しずつ距離をつめていこう。
背後の監督車から、大家のしわがれた声がした。
「ムサー! 興奮した競走馬みたいに、鼻息荒くキンタマ縮みあがらせてんじゃないだろ
な!」
スピーカー越しの声は、しばらく途絶えた。車に同乗する監視員から、どうやら注意を
受けたらしい。咳払いとともに、再び大家は言った。