北関東大の選手は、出場者のなかでもトップクラスのタイムを持っている。ジョータは
ちゃんと、同じ区間を走る選手のデータを、ユキに見せてもらっていた。意地になって、
あの選手と互角に戦おうとしても無理だ。東京学院大のやつは、俺を追い越すときに、す
でに呼吸が荒かった。いずれ追いついて、また追い抜き返すことができるだろう。
湘南海岸道路は見通しがいい。ジョータは、まえを行く東京学院大と新星大、そして、
順位を落としつつあるらしい前橋工科大と城南文化大の選手の姿を、はっきりととらえて
いた。
十五キロの給水ポイントで、「まえとの差、縮んでるよ!」と声をかけられた。よし行
ける。脚にいっそう力がみなぎったように感じられた。それまで沈黙を守っていた監督車
から、大家の声がした。
「ジョータ! おまえ集中しとるか? なんかべつのこと考えてないか?」
考えてた。ジョージのこととか、いろいろ。なんでわかったんだろ、とジョータは首を
ひねる。フォームに乱れでも出ていたのか?
「ハイジから伝言だ。ラスト一キロが踏ん張りどころだ。なにを見ても動揺するな。以
上」
ハイジさんか、とジョータは納得した。大家さんにわかるわけがないと思ったんだよ
ね。清瀬が携帯テレビでジョータの走りを見て、活を入れるべきだと判断したのだろう。
だけど、動揺するようななにが、行く手に待ち受けているのか、それがわからない。
ジョータはわくわくした。清瀬には本当に性格を読まれていると思うが、ジョータは刺
激があると知らされると、そこに行ってたしかめてみずにはいられないのだ。いくら清瀬
に反抗しても、結局は掌てのひらで遊ばされている感じがあり、それが少し癪しやくだ
が、愉快だった。
まずは東京学院大と新星大を抜き去った。
十八・一キロ地点に、相模川にかかる湘南大橋がある。防砂林が途切れ、ジョータはよう
やく、広がる大海を目の端にとらえることができた。真水と海水がぶつかり、まじりあっ
て、河口近くには白く大きな波が立っている。
城南文化大と前橋工科大の選手に、そろそろ追いつけそうだ。橋を渡りきったところ
で、勝負をかけよう。ジョータはそう思い定め、さらに前方を見やった。
東体大だ。
これまで姿を見ることができなかった、東体大の青地に水色のラインが入ったユニ
フォームが、そこにあった。
まだ届かない。でも、近づくことはできる。少しでも距離を詰めて、ジョージに託すこ
とはできる。走を苦しめ、竹青荘の住人たちに因縁をふっかけてくる、東体大の 。
ジョータはいつも、 を腹立たしく思っていた。 にうまく言い返せずに黙りこんでしま
う走を、気の毒に感じた。俺も実は、相当ねちっこくて屈託ある男だが、 みたいな陰険
野郎ではないね。
東体大のほかのメンバーに恨みはないが、 のいるチームだという一点で、あいつらは
俺たちのライバルだ。けちょんけちょんにやっつけてやるべき敵だ。もちろん とちがっ
て正々堂々と、走りで勝負してみせる。
ジョータは鼻息も荒くスパートした。城南文化と前橋工科大に並ぶ。相手もそう簡単に
抜かせてはくれない。だがもう、ジョータは併走する選手のことは気にしなかった。まえ
を行く喜久井大と東体大の姿だけを視界に走る。
二十キロ地点の表示があった。二十一・三キロある三区も、もうすぐ終わりだ。動揺する
ようなことって、そういえばなんなんだろう。ジョータはふと思い、ラスト一キロに差し
かかって、その意味を知った。
直線道路のため、一キロ手前から平塚中継所が見えはじめたのだ。目標物があると逆
に、走っても走ってもまだ着かない、という気持ちになる。あせってはだめだ。とにかく
ここで粘って、併走する選手を突き放し、ちょっとでもいいタイムでジョージに襷を渡さ
なければ。
しかしさらに、ジョータをびっくりさせることが起きた。中継所の手前二百メートルに
なって、かたわらの歩道を、葉菜子が自転車で疾走していることに気づいたのだ。
人垣の向こうで、葉菜子は必死に自転車を漕いでいた。
「ジョータくん、あとちょっとだよ!」
歓声に混じって、ジョータは葉菜子の声をはっきりと聞き取った。
葉菜ちゃん、きみはいつも、「頑張って」とは決して言わないね。もうこれ以上頑張り
ようがないほど頑張っていると、きみはちゃんとわかってるからだ。どうしてそんなに、
俺たちを応援してくれるの。
ジョータは、自分を見上げて微笑む葉菜子の表情を思い浮かべ、あやうく「あ!」と声
をあげるところだった。
それは天啓のように、ジョータのうえに降ってきた。
葉菜ちゃんって、もしかして俺のこと好きなのか?
そう考えると、葉菜子が竹青荘に来るたびににやにやしていたユキとニコチャンの態度
も、毎度毎度、やけに熱心に葉菜子を送るよう勧めたムサの言動も、腑に落ちた。
え、でも待てよ。葉菜ちゃんのことは、いつも俺とジョージの二人で送ってた。葉菜
ちゃんもそれで全然不満そうじゃなかった。
いったい葉菜ちゃんは、俺たちのどっちを好きなわけ?
ジョータはうれしさと疑問で混乱し、混乱したまま気づかぬうちに、城南文化と前橋工
科を完全に抜き去っていたのだった。
その少しまえ、平塚中継所ではジョージとニコチャンが、自転車に乗って走り去って
いった葉菜子を、呆然と見送っていた。
「行っちゃったね」
「行っちゃったなあ」
葉菜子は平塚中継所で、ニコチャンとともにジョージにつきそっていたのだが、いよい
よジョータが近くまで走ってきたことを知って、飛びだしていってしまった。見物客の一
人が引いていた自転車を、「すぐ返しますから」と半ば強引にもぎ取って。
「いい子だよなあ、おい」
とニコチャンは言った。葉菜子は平塚中継所でもいつもどおり、ジョージが居心地よく
レース前のひとときを過ごせるよう気を配っていた。ニコチャンと協力して毛布や飲み物
を運び、ストレッチをするジョージと、緊張がまぎれるような会話を交わす。
ニコチャンは、さっぱりした気だてのいい葉菜子のことを、すっかり気に入っていた。
息子の嫁にぴったりの娘さんじゃないか、うんうん、という気分だ。
だけど問題はなあ。ニコチャンは無精髭をこする。双子のうちのどっちを好きなのかっ
てことだ。