夏合宿でも、竹青荘に遊びにきたときも、葉菜子は走とよく話していた。走の走る姿
は、とてもきれいだ。同性相手にきれいだと感じるのも変なもんだな、と思ったが、
ジョージは走の走りを見てはじめて、スポーツに真剣に打ちこむものの力と美を知った。
走は陸上バカで、社会に適応する能力も高くはなさそうだけど、とても純粋な部分を
持っている。走は俺みたいに、すぐにひとと仲良くなることはできない。でも少しでも相
手と自分を知ろうとして、いつだってうんうんうなりながら言葉を探してる。
走の生きかたは、走の走りに似ているんだ。力強くまっすぐで、見るものに希望と期待
を抱かせる。
だからジョージは、喧嘩をしつつも、走のことが好きだった。走のように走れたら、ど
んな世界を見ることができるんだろうと、いつも想像した。葉菜子は陸上競技そのものの
魅力に取りつかれているようだったから、きっと、そんな走のことを好きなんだろうと
思っていた。
走だって、葉菜ちゃんのこと嫌いじゃないみたいだし。
「こら、ジョージ! 聞いてんのか、おい!」
大家の怒声に、ジョージははっと我に返った。
あれ、ここどこだ? ジョージはあたりを見まわす。前方に、東体大と喜久井大のユニ
フォームが見える。酒さか匂わ川がわにかかる大きな橋を渡っているところだった。十五
キロ地点だ。もうすぐ小田原の市街地に入る。
いつのまにここまで来たんだろう。沿道の歓声がいまさらのように耳に入り、ジョージ
は驚いた。
「ジョージ!」
再び監督車の大家に怒鳴られ、ジョージは「聞いている」という合図に、右手を振って
みせた。レースに集中しなくては。給水のボトルを受け取り、ジョージは頭に振りかけ
た。ひんやりと口の端を伝った水滴を舐め取る。
「なんかようわからんが、走から伝言だぞ」
と大家は言った。「『好きなら走れ』。以上」
えらそうに。ジョージは笑いを み殺した。自分で自分の気持ちに、全然気づいてない
くせにさ。
でも、そうだね走。いまは走ろう。好きだから。楽しくて苦しかったこの一年に、出
会ったすべてのひとのために。心からの応援も、心ない中傷も、すべて受け止めて弾き返
せるほど強く。俺たちが好きな「走る」ということを、いまは満喫しつくそう。
ほかのことは、全部それからだ。
ジョージは小田原の、穏やかな昔ながらの街並みを疾走した。街道沿いには、近所の
人々が大勢出ていて、声援を送ってくれる。この町のひとたちはずっと、正月には箱根駅
伝の選手たちを応援してきたんだな。ジョージはそう感じた。ふだんは走ることと縁遠く
ても、このときばかりは自分のことのように、町を走る選手を一心に見つめるのだ。
箱根駅伝に出られてよかった。真剣に走ることを知って、よかった。
小田原本町の交差点を右折したとき、ジョージは喜久井大の選手についに並んだ。濡れ
た髪の毛を、箱根からの風が冷やしていくが、それさえも心地いい。東体大の姿も、完全
に視野に入っている。
箱根登山鉄道のガード下をくぐり、左手に早川の流れを見ながら、ジョージはいよいよ
ラスト一キロの上り坂に差し掛かった。苦しい。前半をぼんやりと走ったせいで、リズム
に乗りきれない。
すぐ右横を、箱根湯本まで乗り入れている小田急のロマンスカーが通過する。
清瀬の言葉を思い出した。
「きみの価値基準はスピードだけなのか。だったら走る意味はない。新幹線に乗れ! 飛
行機に乗れ! そのほうが速いぞ!」
あのときは、清瀬が走になにを言いたいのか、よくわからなかった。だけどいまはわか
る。箱根に行きたいのなら、冷凍ミカンでも食べながらロマンスカーに乗ればいい。そう
すれば楽だし速い。
でも、ちがうんだ。俺が、俺たちが行きたいのは、箱根じゃない。走ることによってだ
けたどりつける、どこかもっと遠く、深く、美しい場所。いますぐには無理でも、俺はい
つか、その場所を見たい。それまでは走りつづける。この苦しい一キロを走りきって、少
しでも近づいてみせる。
ジョージは喜久井大に競り負けなかった。がむしゃらに食いついて、厳しくなる傾斜に
めげずに体を進めた。
小田原中継所のある箱根登山鉄道風かざ祭まつり駅えきのほうから、奇妙な音楽が聞こ
えてきた。
「なんだか背後がうるさいようなんだが」
と清瀬が言った。
ユキは片耳を掌でふさぎ、携帯電話の通話口に向かって声を張りあげる。
「チクワやハンペンが舞い踊ってるんだよ。それより、そっちの天気はどう?」
風祭駅の駅前にある中継所は、小田原のカマボコ会社が経営する店の駐車場に設けられ
ていた。中継所には大勢の見物客が集まり、カマボコ会社のマスコットキャラクターらし
き着ぐるみが音楽に合わせて踊っている。陣太鼓も打ち鳴らされ、お祭り気分は最高潮に
達しようとしていた。
四区を走る各校の選手が、中継所に近づきつつある。ユキは神童につきそって、もうす
ぐ小田原中継所にやってくるだろうジョージを待っているところだった。
国道一号は箱根登山鉄道の線路と早川の流れに挟まれ、箱根湯本へ、そしてその先の山
のほうへとのびている。
「こっちはかなり冷えるな」
と清瀬が電話越しに情報を伝えた。「いまは四度ちょっとあるが、雲が出てきている
し、もっと気温が下がるかもしれない」
風祭のあたりと芦ノ湖とでは、二度ぐらいは気温がちがうということだ。やっぱり神童
は長袖のシャツを着たほうがいい、とユキは判断した。
「神童の具合はどうだ」
「いまトイレに行ってる。あ、戻ってきた。替わるよ」
ユキは、「神童、ハイジから」と呼びかけ、携帯電話を持った手を振った。店のトイレ
から出て駐車場を歩いてくる神童に、見物客たちは道を譲った。出走する寛政大の選手だ
から、というよりも、出で立ちが異様だからだろう。神童はあいかわらず顔の下半分をタ
オルで覆い、マスクを二つ重ねてつけていた。熱のせいで足取りがふらついている。
「これでヘルメットをかぶっていたら、『安田講堂写真集』に映ってそうだな」と思いな
がら、ユキは携帯電話を神童に手渡した。
電話に出た神童は、「はい、大丈夫ですよ」と、まったく大丈夫ではなさそうな、熱に
掠かすれた声で言った。清瀬と少しのあいだ会話し、神童は通話を切った。
「ハイジはなんて?」
「絶対に給水をしろと」
もうほかに言えることはない。ユキも神童も、清瀬の心情はわかっている。神童が棄権
したら、そこで寛政大学の箱根駅伝は終わるのだ。芦ノ湖までなんとしてもたどりつくし
かなかった。