「神童、ユキ」
雑踏のなかから呼ぶ声がする。振り返ると、八百勝と引き綱をつけたニラが歩み寄って
きた。この二日間は竹青荘の住人たちが出払ってしまうので、八百勝がニラの面倒を見て
くれている。ニラは神童とユキに気づき、盛大に尻尾を振った。
「ジョージはいま、喜久井大と十位争いをしているみたいだよ」
と八百勝は言った。八百勝は午前中から、ニラとともに小田原中継所付近に陣取ってい
た。神童は決意を秘めて、静かにうなずく。神童の体調が悪いことは明らかだったので、
八百勝も「大丈夫かい?」などと無駄なことは尋ねない。神童がニラの頭をなでてやるの
を、黙って見守るだけだった。
陣太鼓の音がひときわ激しくなる。房総大の選手が、トップで襷をリレーした。次に来
たのは、大和大だった。平塚では五位だったのに、順位を上げている。箱根の王者、六道
大の姿は見えない。番狂わせに、観客はどよめいた。
大和大から遅れること二十秒で、真中大が小田原中継所に入った。さらに七秒後、四位
に転落した王者・六道大が、ようやく五区の選手に襷を渡した。
神童はベンチコートを脱ぎ、ユキに預けた。ランニングのユニフォームの下に、銀に近
い灰色の長袖Tシャツを着ている。箱根の山を登るにつれて、気温はどんどん下がる。長
袖を着用している選手は、他大学にもちらほらと見受けられた。
「行くか」
ユキは預かったベンチコートを持ったまま、神童とともに中継ラインに近づいた。甲府
学院大、動地堂大、北関東大の順で、襷が受け渡されていく。ここまでで、トップ房総大
とのタイム差は約四分半だ。五区の山上りで、逆転もありうる。どの大学が往路優勝する
か、展開を読みにくい接戦になっていた。
神童はマスクとタオルをはずした。
「これは袋に入れて密封して、八百勝さんに渡してください。風邪の菌がついてるから、
ユキ先輩は絶対に持ってちゃだめです」
そんなに神経質にならなくても、とユキは思ったが、神童は真剣な表情だ。実戦を目前
にして、ナーバスになっているのだろう。少しでも気がかりを残しては、いい走りができ
ない。
「わかった」
とユキは素直に承諾しておいた。
西京大と東体大の選手が中継所に到達した。「つぎ、喜久井と寛政が来ます」と、係員
の声が響く。ユキは言おうか言うまいか迷ったすえに、中継ラインに足を踏みだそうとし
た神童を呼びとめた。
「つらかったら、途中で棄権してもいい」
神童は驚いたように振り向き、ユキの顔をじっと眺めた。張りつめて、ぎりぎりのとこ
ろにある神童の心身に、ひびを入れる言葉だったかもしれない。それでもユキは、言わず
にはいられなかった。
熱で潤んでいた神童の眼球が、その瞬間だけ冴え冴えとした光を宿した。ユキは神童の
まっすぐな視線を受け止め、言葉を重ねた。
「そうしたとしても、だれも責めない。だめだと思ったら、お願いだからすぐに棄権して
くれ」
「はい」
神童は微笑み、中継ラインに立った。
ジョージが喜久井大の選手と並んで、渾身の走りを見せている。どちらも譲らない。最
後の数歩は呼吸さえも止めて、二校は同時に中継ラインを越えた。
「神童さん!」
襷に刺 された「寛政大学」の銀色の文字が、風に翻ひるがえった。神童は無言で襷ご
とジョージの手を一瞬握り、小田原中継所から走りでていった。
「神童さんの手、すごく熱かった」
二十キロ以上を走った俺よりも。山のほうへ消えた神童の背を、ジョージは愕然として
見送る。俺は馬鹿だ。どうして、もっと集中して走れなかったんだろう。神童さんが風邪
を引いていること。それでも俺を信じて待っていてくれていること。俺は知っていたの
に、どうしてもっといい位置で襷を渡すことができなかったんだ。
寛政大は、大手町を出発してから四時間二十四分四十七秒後に、小田原中継所で襷をリ
レーした。喜久井大と同着十位。
ジョージの区間記録は一時間〇四分二十四秒で、四区、二十・九キロを走った選手のなか
では十一番目のタイムだった。三区、二十一・三キロを走ったジョータの区間記録が、一時
間〇四分三十二秒で十位だ。距離からしても、ジョータとジョージの実力を考えても、
ジョージはもっといいタイムで走れたはずだった。
とうとう寛政大が十位につけたが、ジョージには悔いばかりが残っていた。
そんなジョージを、ユキは「おつかれ」とねぎらった。ジョージが自分の走りに満足で
きていないのはわかったが、ほかの人間が安易に慰めたり励ましたりすることはできな
い。端はたから見れば、ジョージは寛政大チームの希望をつなぐような、大活躍をした。
納得がいかないと感じる部分は、ジョージ自身がなんとか折りあいをつけていくしかない
問題だ。
「ユキ先輩。俺、悔しいよ」
ジョージはそれだけ言って、唇を んだ。
「俺もだ」
うなだれるジョージの頭を、ユキはつかんで軽く揺さぶった。「神童を止められなかっ
た。止めずにはいられなかったんだけど、やっぱりだめだった」
ユキはジョージを、喧噪から離れたところでたたずむ八百勝とニラのもとに誘導する。
「顔を上げろ。おまえはちゃんと走ったんだから」
うつむいたままのジョージに、ユキは囁いた。「どんなに必死になったって、届かない
ときもある。でも、だからこそいいんじゃないか」
終わらない。終わりようがない。寛政大の箱根駅伝も、ジョージの後悔と喜びも。届か
なかったと感じるかぎりは、無限に「次」があるのだ。
ジョージは掌で目もとをこすり、「そうだね」と背筋をのばした。
ユキは翌日の出走に備えて芦ノ湖へ。ジョージは横浜のホテルへ。八百勝とニラは、明
日の夜に予定されている打ち上げを準備しに、軽トラックで商店街へ。するべきことをす
るために、それぞれの持ち場へ向かおう。
レースはつづき、チャンスはまだまだ残されている。ジョージは八百勝とニラに手を振
り、ユキとともに風祭駅のほうへ歩きだした。
体の底から寒気がし、それなのに汗だけは皮膚を流れる。湿ったTシャツが風で冷え、
それなのに体の表面だけは火ほ照てりが取れない。一歩を踏みだすたびに衝撃で頭痛が
し、鼻がつまって呼吸もままならない。