靄もやのかかった脳みそのなかで、まえへ、まえへ、とただその言葉だけが、呪文のよ
うに木こ霊だましていた。
走と清瀬が芦ノ湖に着いたのは、正午を少しまわったころだった。再び電波を拾うよう
になった携帯テレビが、四区の後半を走るジョージの姿を映しだす。
清瀬は、監督車の大家と、小田原中継所にいるユキに電話し、それぞれに伝言や指示を
与えた。走はそのあいだ、少し離れたところで湖を眺めていた。
つい数時間前までビルとアスファルトの世界にいたことが、信じられないような景色
だ。湖はなだらかな山に囲まれて空を映し、張りつめた薄氷のように銀色に輝く。さざな
みを立てて、海賊船を模した遊覧船が湖をゆっくりと横切っていく。それを見下ろす富士
山は、純白の雪をまとい、遠近感を狂わせるほどはっきりと姿を現している。
作り物めいて見えるほど、平穏で美しい眺望だ。
だが、箱根駅伝往路のゴールにして復路のスタート地点である芦ノ湖の駐車場は、雄大
な自然とは裏腹に騒然としていた。五区のランナーの到着を待つ見物客や関係者で、駐車
場は早くもごった返している。湖を渡る風で冷えこみが厳しいが、駐車場に集まった人々
は、協賛会社が販売するビールや、地元住民が炊きだしをしてくれる豚汁などを手に、巨
大な特設ビジョンに見入る。
画面には、山道を走る選手たちが映しだされていた。何台もの中継車が連携して、トッ
プからビリのほうまで、まんべんなく映像を送るように苦慮しているのがうかがわれた。
山に入ってから、全選手がいよいよ縦にばらけてきたのだ。
トップを行くのは、小田原中継所を一位で襷リレーした房総大だった。あとを追うの
は、山に入ってから遅れを取り戻した六道大。途中で番狂わせはあったが、レース前のお
おかたの予想どおり、往路の一位は房総大、二位は僅差で六道大というところに落ちつき
そうだ。
三位には、小田原を二位で通過した大和大が堅実につけていた。小田原では三位だった
真中大は、大幅に順位を落としている。
注目の的となっているのは、喜久井大だ。小田原では寛政と同着十位だったのに、山上
りでどんどん順位を上げ、芦ノ湖へ至る最後の下りで、ついに五位になった。ハードな上
り坂をこなしたあとだというのに、スピードがまったく衰えない。五区の区間新記録が打
ち立てられるのは、ほぼまちがいなかった。このペースで最後までいけば、前人未到の一
時間十一分三十秒を切ることも可能だろう。
走は思わず、拳を握った。特設ビジョンには、五区を走る喜久井大の稲垣という選手が
映しだされている。まだ二年生だ。
なんて軽やかに走るんだろう。体重や重力をまったく感じさせず、それでいて力強い。
傾斜などないかのように脚を運んでいる。表情にはまだまだ余裕があり、このまま富士山
にだって登っていけそうなほどだ。
六道の藤岡だけじゃない。こういう選手が、箱根にはいるのだ。いままでまったく無名
だったのに、彗すい星せいのように現れて、走りとはなにかを体現してみせる選手が。
走は悔しかった。同時に、喜びも感じた。走りたい。早く俺を走らせてくれ。藤岡も、
あの稲垣という選手もまだ見ぬ高みを、俺に味わわせてくれ。
画面が切り替わり、神童が映った。神童も稲垣とは逆の意味で、五区の注目選手になっ
ていた。大幅に順位を落とし、寛政大は現在十八番目。神童は体調不良のためにほとんど
気絶寸前で、ふらふらと蛇行しながらも必死に体を進めている。
「神童さん……」
うつろな目で、それでも前方を見据えようとする神童の表情に、走のなかから言葉が
ごっそりと抜け落ちた。だれも助けることのできない場所で、神童は戦っている。自分自
身のために。そして、これまで一緒に走ってきた竹青荘の住人たちのために。
走りとはひたすら、個人的な行為だと走は思ってきた。いまでもそう思っているし、そ
の思いに絶対にまちがいはないと確信している。
だが、結果や記録とはまったくちがう次元で、神童が走りを体現していることもたしか
だ。
強さ。ふと走は思う。清瀬が言った強さとは、これなのかもしれない。個人で出走する
レースだとしても、駅伝だとしても、走りにおける強さの本質は変わらない。
苦しくてもまえに進む力。自分との戦いに挑みつづける勇気。目に見える記録ではな
く、自分の限界をさらに超えていくための粘り。
走は認めざるをえなかった。神童さんは強い、と。たとえば走が五区を走っていたら、
寛政はもっと順位を上げることができただろう。だがそれがすなわち、神童よりも走のほ
うが勝っているということにはならないのだ。
神童は強い。そして走が目指すべき走りのありかたを、身を以て示している。
どうして俺は、俺たちは、走るんだろう。
走は特設ビジョンを凝視しつづけた。
こんなに苦しくてつらいのに、どうして走りやめることができないんだろう。もっと強
く吹いてくる風を感じたいと、体じゅうの細胞が蠢うごめく。
「走」
いつのまにか、すぐ後ろに清瀬が立っていた。「宿に連絡して、布団を敷いておいても
らえるよう、頼んでくれ。それから、懇意の医者がいたら、待機していてくれるように
と」
「はい」
神童は脱水症状を起こしている。ゴールまでたどりつけるかどうかすら賭けだ。走は急
いで携帯電話を取りだし、湖畔の宿の番号にかけた。清瀬は大会係員のところへ、担架の
手配を頼みにいった。
歓声と応援歌が一段と大きくなる。
大手町を出発してから、五時間三十一分〇六秒。ついに房総大の選手が、東京箱根間往
復大学駅伝競走往路のゴールテープを切った。その一分三十九秒後に、六道大が二位で
ゴール。
走は清瀬とともにゴール脇に立った。寛政大のユニフォームはまだ見えない。
「大家さんが棄権をうながしても、神童はうなずかなかったそうだ」
清瀬はつぶやいた。「無事ならばいい。無事にここまで来てくれれば、タイムも順位
も、もう……」
山を走り終えた選手たちが、一人また一人とゴールする。待ちかまえていたチームメイ
トにつきそわれ、ねぎらいの声をかけられながら、駐車場の奥に消えていく。
喜久井大学は、五位で往路を終えた。稲垣は一時間十一分二十九秒という、五区の区間
新記録を出した。区間二位の六道大の選手が、一時間十二分十五秒だったことからして
も、来年以降、稲垣の記録を破る選手が出るかどうか、難しいところだ。それほどの大記
録だった。
棄権への恐れを胸に神童を待つ清瀬と走にとっては、快挙に沸く喜久井大の一団が、な
おさら遠いものに感じられた。
東体大は、十一位でゴールした。五時間三十八分五十三秒。トップとの差は、七分四十
七秒。さらに上位へと、復路に充分に望みをつなげる位置だ。