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九、彼方へ(17)
日期:2025-06-27 17:08  点击:244

  特設ビジョンから、アナウンサーの声が聞こえてくる。

「房総大がトップで往路のゴールを果たしてから、そろそろ八分が経とうとしています。

十分が経過すると、それ以降に到着した大学は、明日の復路が繰り上げ一斉スタートとな

ります。はたして、今年は何校が十分の壁に阻まれるのか。芦ノ湖ゴールから目が離せま

せん!」

  そのあいだにも、真中大、帝東大、あけぼの大がゴール。少し空いて、城南文化大が十

五位でゴールに入った。五時間四十分五十六秒だった。

「ここまでだな」

  特設ビジョンを見ていた清瀬が、けわしい表情になった。「十分が経つ」

  特設ビジョンには、なんとか十分の壁を越えようとひた走る、学連選抜チームの選手が

映しだされている。見物客のひしめく湖畔の道を走り、信号で右折して短い直線を駐車場

まであと少し、というところだ。

  だがそこで無情にも、房総大がゴールしてから十分が経ってしまった。見物客から落胆

の悲鳴が漏れる。選抜チームの選手は一瞬天を仰ぎ、それでもすぐにきりっとまえを向い

て、全力でゴールを走り抜けた。五時間四十一分三十三秒。二十七秒届かなかったため

に、復路を繰り上げ一斉スタートすることが決まってしまったのだ。

「神童さんです!」

  走は特設ビジョンを指した。ユーラシア大の選手の後方に、よろめきながら走る神童の

姿があった。走と清瀬は、人垣のあいだからゴール地点に飛びだした。

  ユーラシア大が十七番目に、五時間四十二分三十四秒でゴール。そして寛政大のユニ

フォームを着た神童が、とうとう信号を折れ、ゴール前の直線に差しかかった。

  神童は音を頼りに、かろうじて進む方向を判断しているような状態だった。ふらつくた

びに、詰めかけた見物客が息を呑む。

  走は走っていって、神童を支えたかった。ゴールまで四十メートルもない。もういいと

言って、医者のところへ抱えていきたかった。でも、それは許されていない。走る選手に

手を触れた時点で、失格になってしまう。ここまでたどりついた神童を、ただただ見守

り、その名を呼ぶしか、できることはなかった。

「神童!」

「神童さん、こっちです!  もう少し!」

  清瀬と走は、周囲の喧噪に負けないよう、声を張りあげた。神童が残る気力と体力のす

べてを振り絞ったのがわかった。

  最後の五歩を、神童は地面を踏みしめてまっすぐに走り、ゴールラインを越えた。その

ままくずおれようとする神童を、走と清瀬が二人がかりで抱きとめる。体が発火したみた

いに熱い。

「担架をお願いします!」

  清瀬が叫ぶ。呆然としていた係員があわてて、丸めた布担架を持って近寄ってくる。

  走はペットボトルの水を神童の頭から振りかけ、 を軽くはたいた。

「神童さん、水!  飲めますか、飲んでください!」

  かすかに動いた唇に、走はペットボトルの口を押し当てた。

  神童は首を振って、それをいやがった。求めていたのは水ではなかった。神童はなにか

を言おうとしていた。覗きこむ走と清瀬に、必死に伝えようとしていた。

  謝罪の言葉を。

  神童を担架に寝かせようとして、走はそのことに気づいた。

「どうして……」

  走は神童の頭を抱きかかえた。そんな言葉を言わせたくなかった。

「神童さんは走り抜いたんです。それだけでもう、充分じゃないですか。俺たちに

は……」

  走ることだけがすべてだ。

  寛政大の黒と銀の襷は往路百七・二キロを越え、いま、芦ノ湖に届いた。それ以上に望む

ものなど、なにもない。

  出場二十チーム中、寛政大は十八番目で往路を終えた。大手町を出発してから、五時間

四十二分五十九秒後のことだった。トップとの差は十一分五十三秒。

「芦原旅館にお願いします。すぐに医者に見せたい」

  清瀬が係員に頼み、神童の横たわる担架が、しずしずと持ちあげられた。

  往診した旅館の近所に住む医師は、

「よく走ったねえ」

  とあきれたように首を振った。「ひどい風邪だよ。そこに疲労と脱水症状のダブルパン

チを食らって、ノックアウトってところだ。ま、若いし体力もあるから、肺炎までにはな

らんでしょう。一晩ゆっくり休ませてあげなさい」

  医師は点滴が終わるのを見届け、帰っていった。走と清瀬が、神童の看病にあたった。

監督車で到着した大家と、交通規制が解除になり、やっと芦ノ湖まで来ることができたユ

キも、枕元に集結した。

  神童はこんこんと眠りつづけ、午後三時過ぎになってから、旅館の一室でようやく目を

開けた。第一声は、「マスク」だった。

  買っておいたマスクを走がポケットから出すと、神童はそれを装着し、布団のうえに

ゆっくり身を起こした。

「すみません。僕のせいで迷惑を」

「いや、謝るのは俺のほうだ」

  神童の言葉を、清瀬が強くさえぎる。「俺の読みが甘かった。対外交渉を全部任せてし

まって、きみが疲れているのはわかっていたのに……。無理をさせた」

  放っておいたら、清瀬と神童は互いに永遠に謝りつづけていそうだ。だれのせいでもな

いとどうやって納得させればいいのか、走は困惑した。

「まあまあ」

  と大家が、うつむく清瀬と神童に声をかける。年の功で、この場を収めることを言って

くれるのかもしれない。走は期待した。大家はおごそかに言った。

「とにかく、明日は厳しい戦いになるな」

  ちっとも場を収めないばかりか、傷口に塩を塗りこむような発言だ。走は憤然として、

「ならないです」

  と大家をにらんだ。

「『俺が走るんだから』と言いたそうだな、走」

  大家は揶や揄ゆし、居住まいを正した。「予測不能な厳しさは、レースにつきものだ。

俺が言ってんのは、つきそいのことよ。レース前の選手の心身をサポートするのは、重要

な役割だぞ。神童がこの調子だと、六区を走るユキの世話は、だれがする。俺は監督車に

乗らなきゃならんし……」

「心配ご無用、ですよ」

  それまで黙っていたユキが、口を開いた。「つきっきりで面倒を見てもらわなきゃ走れ

ないほど、俺の精神はヤワじゃありませんから。神童は安心して休んでいればいい」

「いいえ」


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06/29 01:12