と神童は首を振る。横になろうとしないので、走はずっと持って歩いていたムサのベン
チコートを、神童の肩にかけてやった。神童はコートの胸元を握り、しっかりした口調で
言った。
「一晩寝れば、よくなります。明日の朝は、僕が責任を持ってユキ先輩のお世話をします
よ」
大家はしばらく神童の表情をうかがっていたが、「よし」とうなずいた。
「じゃ、ユキのことは予定どおり、神童に任せるとしよう。いいな、ハイジ」
「……はい」
清瀬はうつむく。走はあえて明るい声を出した。
「そうと決まったら、みんなに電話しましょう。神童さんを心配して、連絡を待ってます
よ」
走の携帯から、横浜にいる王子とジョージに。ユキの携帯から、藤沢にいるムサとキン
グに。清瀬の携帯から、小田原にいるジョータとニコチャンに。それぞれ連絡を取って、
通話口に顔を寄せ、十人で同時に会話することになった。
「神童さん、大丈夫ですか!」
「待ち時間が長すぎるよ。僕、持ってきた漫画を全部読み終えちゃったんだけど」
「ジョータのやつが、腹減ったってうるさくてかなわねえ。カマボコ買いにいっていい
か?」
「あー、ずるい! 俺のぶんも買っておいて兄ちゃん」
「いっせいにしゃべるのはよせ」
と、清瀬が携帯電話に向かって一喝した。「まずムサ。神童は無事だ」
ユキが携帯を神童に渡した。神童とムサはお互いの健闘を称えあう。清瀬は次に、走の
携帯に向かって、「王子」と呼びかけた。
「そっちに勝田さんは到着したか?」
「さっきチェックインしましたよ。あとで僕とジョージの部屋に顔を出すって言ってたけ
ど」
「双子が、勝田さんの気持ちに気づいた」
「へえ」
「俺と走が行くまで、ジョージと勝田さんをなるべく二人きりにするな」
「どうして?」
王子の声は、明らかに事態をおもしろがっている。
「ジョージが浮き足立って告白でもしたら、明日の戦いに影響があるかもしれないだろ」
清瀬は言いながら、ちらっと走に目をやった。またなんで俺を見るんだよ、と走は思っ
た。
「了解」
と王子はくすくす笑った。
「さて、全員、携帯のそばに集合」
清瀬が号令をかける。走は、三機の携帯をすべて手ぶら機能にし、神童の布団のうえに
並べた。通話口の向こうで、それぞれの場所にいる住人たちが、携帯のまわりに身を寄せ
る気配がした。
「みんな、今日はよく頑張った」
清瀬は話しはじめた。「寛政大は十八番目で往路を終えた。決していい位置ではない
が、復路にまだまだチャンスはある」
「おーう」
通話口から、やる気をわざと押し殺したような、間延びした返事が届いた。意地っ張り
というか、照れ屋なひとが多いからな、と走はおかしく思う。
「明日走るものは、くれぐれも寝冷えと食い過ぎに気をつけること。俺からは以上だ」
「以上なのかよ」
とキングの声がした。「もっとこう、有益なアドバイスはないのか?」
「ないよ」
清瀬は微笑んだ。「ここまで来たら、力を出しきるために自分で集中するしかない」
「明日で終わりなんだねえ」
と、しみじみと言う声がする。ジョージだ。それを聞きつけたジョータが、
「ばっか、おまえ、しんみりしちゃうじゃないか」
と鼻をすすったようだ。
走は、並んだ携帯電話へ思いをこめて告げた。
「明日、大手町で会いましょう」
「大手町で!」
そこで再会したとき、竹青荘の住人たちはどんな表情をしているのか。
楽しみだ、と走は思った。こういう気持ちになったことは、いままでなかった。だれか
に会えるのをこんなに楽しみにしたことは。だれかが待つ場所へ、早く走ってたどりつき
たいと願うことは。
いままでなかった。走る喜び。苦しみを凌駕してなお、胸に燃える理由。
再び会うために。会って、ともに走ったことを喜びあうために。
明日も戦う。全力をもって。
東京箱根間往復大学駅伝競走は、まだ折り返し地点を迎えたところだった。
走と清瀬は、芦ノ湖の旅館をあとにした。これから横浜のホテルまで戻らなければなら
ない。体力を温存しろ、と大家が金をくれたので、二人はタクシーで山を下り、小田原駅
へ向かった。
車のなかで、清瀬はずっと無言だった。復路のレース展開について考えているのだろう
か。邪魔をしないよう、走も黙っていた。
カーブのつづく山道は、すっかり夜の色に塗りつくされている。木々のあいだからとき
おり、下界に広がる街の灯が見える。
「冷えますねえ。明日は雪になるかもしれない」
と、タクシーの運転手がつぶやいた。
雪が少しでも降ったら、路面は凍結する。積もるほどであれば、箱根の山道は曲がりく
ねったゲレンデのようになるだろう。坂道を一気に駆け下りねばならないユキ先輩は、大
丈夫だろうか。
ひんやりと外気を伝える窓ガラスに、走は顔を寄せた。仰ぎ見た夜空は、厚く白い雲に
覆われていた。
小田原から東海道線に乗る。通勤客がいない日の電車は、オレンジ色の明かりに照らさ
れて静かに揺れた。走はボックスシートに、清瀬と並んで腰を下ろした。
「今日はあまりジョッグができなかったですね」
「そうだな。ホテルに着いたら、まわりを少し走ろうか」
高揚と緊張の一日を乗り切ったためか、会話も途切れがちになる。走はなんだか眠く
なってきた。電車の走るリズムに合わせ、気づくと首がぐらぐら揺れてしまっている。
そのまま本格的に眠りの世界に引きこまれそうになったとき、隣から清瀬に小さく呼ば
れた。