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十、流星(1)
日期:2025-06-27 17:09  点击:275

十、流星

  一月三日、午前五時。

  ユキは芦原旅館の薄暗い一室にいた。寛政大学のユニフォームとジャージに着替え、ベ

ンチコートを手にする。

  ユキが起床してから、すでに二時間が経過していた。旅館の好意で、深夜といってもい

い時間の朝食と入浴をすませ、腹に入った食べ物が程良く消化されたところで、ユキは一

晩を過ごした客室に戻ってきた。

  眠ったのか眠らなかったのか、自分でもよくわからない夜だった。だが、頭はすっきり

と冴えている。興奮と緊張が鋭い刃となって身を削り、なんだか体が軽く感じられる。

  いいテンションだ、とユキは思う。司法試験に合格したときも、こんな感じだった。論

文試験の問題を読んで、答えを書く。おもしろいほどに問題の意味が脳みそに染みこみ、

どう答えればいいのか考える先から、解答用紙は文字で埋まっていった。まるで自動書記

みたいに。それまでインプットしつづけたものを、あんなにスムーズにアウトプットでき

たことはない。意識がクリアになって、第六感まで働いているような快感だった。

  あのときと同じ高揚と集中の瞬間が、自分の心身に訪れようとしているのがわかる。

  箱根駅伝の復路のスタートは、午前八時だ。これから三時間かけて、ユキはゆっくりと

ウォーミングアップする。テンションをますます上げていくために。二時間は緊張をほぐ

しながらまったりし、残りの一時間で集中してアップするのが、ユキのやりかただった。

司法試験に臨んでいたころから、このペースで集中の密度を上げることを、ユキは好ん

だ。

  客室の六畳間は、敷かれた三組の布団でいっぱいだ。マスクをした神童は、かすかな寝

息を立てている。そっと額に手を当ててみると、まだ少し熱い。大家は歯ぎしりをしなが

ら熟睡中だ。

  二人を起こさぬように、ユキは自分が使っていた布団を軽く畳んで隅に寄せた。窓辺に

立ち、そっとカーテンをめくる。旅館のこぢんまりとした庭はうっすらと雪で覆われ、闇

色の空は灰のような雪片を落としつづけている。

  ユキはスキーに行ったことがなかった。寒い季節にわざわざ寒い場所で、足に板をくっ

つける気が知れない。そんなことをする時間を勉強にまわしたほうがましだと思ったし、

なにより、母親と二人の生活で、遊びに使う余計な金はなかった。

  雪の積もった急坂を駆け下りるなんて、俺にできるだろうか。いまさら六区を走れませ

んとは言えない。こんなことなら、スキーぐらい経験しておくべきだったか。

  窓ガラスはユキの吐息に触れ、すぐに白く曇った。ユキと神童と大家の発散する体温

で、室内はほのかにぬくもっている。

  俺だけじゃない、とユキは自分に言いきかせる。ここ数年、正月の箱根の道路に積雪が

あったためしはない。ほとんどの、いや、たぶん出走する選手の全員が、雪化粧した箱根

の山道を下ったことなどないはずなのだ。だから大丈夫だ。経験不足はみんな同じ。俺は

走れる。走れる。

  暗示をかけるように内心で唱え、ユキは床の間に置いてあった寛政大の襷を手に取っ

た。それは、往路を走った五人の汗を吸い、まだ湿り気を帯びているようだった。

  襷を丁寧に畳んでジャージのポケットに入れ、ユキは静かに客室を出た。

  廊下を通って玄関に行くと、旅館の女将おかみが新聞を手にしていた。

「あら、もう着替えたんですか」

「はい。これからウォーミングアップします」

「外で?」

  いまだに暗い表を見やって、女将は心配そうに眉をひそめる。「いま、マイナス五度で

すよ」

  外に出るつもりでいたユキは、あっさりと考えを改めた。もう少し気温が上がってから

でないと、寒さで筋肉が硬直してしまう。

「ここをお借りしていいですか」

  だれもいないロビーを指すと、女将は快く「どうぞ」と言った。

「新聞、読みます?  今日は早めに配達してくれるよう、頼んでおいたんですけど」

  新聞を読みながら、ユキはロビーの床に座ってストレッチをはじめた。息を吐いて、

ゆっくり全身の筋と関節をほぐしていく。

  紙面には、箱根駅伝往路の話題が大きく載っていた。房総大が僅差で往路を制したこ

と。復路で六道大が逆転できるのか、総合優勝をどの大学が手にするのか、予断を許さぬ

混戦状態にあること。

「十人だけの挑戦」という見出しで、寛政大のことにも触れられていた。ふらふらになっ

て、山道を必死に走る神童の写真も掲載されている。ユキは両脚を開いて上体を倒しなが

ら、記事を読んだ。

「メンバーが十人のみの寛政大は、五区でまさかのブレーキ。大幅に順位を下げ、十八番

目で往路を終える結果となった。しかし、復路に一年の蔵原、四年の清瀬と、エース級の

選手を擁し、まだ巻き返しの機会は十二分にある。小さなチームの偉大な挑戦の行方に注

目だ」

  記事の末尾には、(布)と署名があった。布田さんだ、とユキは思う。夏休みに白樺湖

まで来た布田記者は、ずっと寛政大を見守りつづけてくれている。

  チャンスはまだ十二分にある。自分たちではそう信じていたが、第三者にも言ってもら

える、この心強さといったらどうだ。ユキは新聞をロビーのラックに入れ、黙々とスト

レッチに励んだ。

  六時になったところで、神童がロビーに現れた。ムサのベンチコートを羽織り、マスク

をしている。神童は「おはようございます」と掠れぎみの声で言い、ユキの背中を押して

ストレッチを手伝った。

「寝てていいのに」

「ユキ先輩はそうやって遠慮するだろうと思って、ムサにモーニングコールを頼んでおい

たんですよ」

  神童もユキの隣に腰を下ろした。「雪になりましたね」

「ああ」

  ロビーの窓越しにひらひらと舞う雪を、並んで座った二人は眺めた。

「調子はどうですか」

「いいね。神童は?」

「僕もだいぶよくなりました」

  ユキは腹筋をはじめた。神童がユキの足首を軽く固定する。

「本当のことを言うと」

  と、ユキはつぶやいた。「まずいぐらい緊張してきた。できることなら逃げだしたい」

「僕もそうでしたよ」

  と、神童はマスクの下で笑った。「音楽を聞いてみたらどうですか?  ユキ先輩の荷物

から勝手に持ってきたんですが」

  神童が差しだしたiPodを受け取り、イヤホンを耳につっこむ。しばらくは気に入り

の曲を聞いていたが、今日ばかりは音の世界も、ユキの慰めにはならなかった。



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06/28 20:34