「だめだ」
ユキはイヤホンをむしりとる。「走ってるときに、俺の趣味じゃない音楽が、脈絡なく
エンドレスで頭のなかをまわりそうな気がする。しかもよりによってノリの悪い曲が!
大きなのっぽの古時計とか!」
「嫌いなんですか?」
「辛しん気きくさいものは好きじゃない」
「いい歌だと思いますが」
と神童は言い、ユキは「ふん」と鼻を鳴らして立ちあがった。足首をまわすユキを見上
げ、神童は提案する。
「どんな曲が頭のなかで流れても、アップテンポに編曲しちゃえばいいんじゃないです
か」
「神童。きみはすごいな」
ユキはつくづく感心した。「俺は不安でいっぱいだ。坂道で転ぶんじゃないかとか、
シューズの紐が切れるんじゃないかとか、悪いことばかりが思い浮かぶ」
「ユキ先輩は区間賞だって狙えますよ」
「なんでそう思う」
「先輩はこれまで、やると言ったことは必ず成し遂げたからです。司法試験も、箱根駅伝
も、先輩はやると言って、そのとおりにした」
神童は目だけで微笑んだ。「だから今度も言ってください。区間賞を狙うと」
神童の静かな迫力に押されるように、ユキは「狙う」と言った。
「はい、もう大丈夫です。ユキ先輩は絶対にいいタイムで走ります」
満足そうにうなずく神童を見下ろし、ユキは思わず笑ってしまった。
「俺が昨日、いかに役立たずだったかわかった」
とユキは言った。「きみもレース前のこのプレッシャーを味わっていただろうに、俺は
こんなふうにきみを支えることができなかった」
「どんなに支えてもらっても、プレッシャーを跳ね返すのは、結局は自分しかいません
よ」
神童も立って、「そろそろジョッグをしましょう」とユキを促す。二人は玄関でシュー
ズを履き、外に出た。朝日の気配はどこにもないが、山で鳥が鳴いていた。細かい雪が、
乾いた感触で に触れた。
「でも昨日、ユキ先輩は僕が走りだす最後の最後の瞬間まで、そばにいてくれたでしょ
う。僕はそれで、ずいぶん力づけられました」
神童はマスクを下ろし、冷たい空気を胸に吸いこんだ。「だから、今日は僕がそばにつ
いてます。先輩がスタートするまで、ずっと」
ユキは返す言葉を持たなかった。ただうれしくて、またマスクをつけ直す神童を見てい
た。
「じっとしてると寒いですね。走りましょう」
「そういえば、大家さんはどうした」
「朝風呂に行くって言ってました」
「観光気分だな、あのひと」
「歯ぎしり、すごかったですよねえ」
ジョッグをしながら、他愛もないことをしゃべる。雪の降る暗い湖畔の道に、ユキと神
童の吐く白い息が揺れて流れた。
走かけるは落ち着かない気分でいた。
清瀬の様子がおかしい。朝食後にジョッグに誘ったのに、「先に行ってくれ。俺はいろ
いろ連絡するところがあるから」と断られてしまった。
ハイジさんが朝のジョッグをしないなんて、絶対に変だ。昨夜もよく眠れていなかった
みたいだし。もしかして、脚が痛いんじゃないだろうか。
ぐるぐると考えながら、三十分ほど横浜駅周辺を走り、「やっぱりホテルに戻ろう」と
走は決めた。ウォーミングアップは、中継所に行ってからでもまにあう。ジョッグを途中
で切りあげるなど、どんなに体調が悪くても走はしたことがなかったが、いまは清瀬のこ
とが心配だった。なにか無理をするつもりではないか。悪い予感に急き立てられるよう
に、走はホテルへ駆け戻った。
小さなビジネスホテルのロビーでは、ジョージがテレビの天気予報を見ながら、スポー
ツ新聞を広げていた。ロビーを横切り、エレベーターのボタンを押した走に気づき、
ジョージは「早かったね」と近づいてくる。
「今日はめずらしく、ジョッグの時間が短いじゃない」
「ハイジさんは?」
「部屋だと思うよ。王子さんと葉菜ちゃんは、一緒に荷物の整理をしてる。俺は追い払わ
れた。なーんか、俺のことを葉菜ちゃんに近づかせまいとする意思を感じるんだよねー」
ジョージは不満そうに唇をとがらせたが、走はもう聞いていなかった。エレベーターに
乗り、五階まで上がる。「なんかあったの?」と、ジョージもついてきた。
寛政大は客室を三つ取っていて、走と清瀬の部屋は廊下の一番奥、隣がジョージと王子
の部屋、エレベーターに近いのが葉菜子の部屋という並びだった。
エレベーターを下りた走は、廊下で一人の男とすれちがった。三十代後半で、手には底
の広い黒い鞄を提げている。往診鞄みたいだなと思った走は、はっとして振り返った。男
の乗りこんだエレベーターのドアが、ちょうど閉まるところだった。
いまのは泊まり客じゃない。医者だ。走は直感した。きっと、ハイジさんの脚を診みに
きた医者だ。
走は猛然と廊下を走り、カードキーで奥の部屋のドアを開けた。
「ハイジさん!」
二つ並んだベッドの窓際のほうに、清瀬は座っていた。走の剣幕に驚いて顔を上げた清
瀬に、走は飛びかかった。
「脚見せてください、脚!」
勢いに押され、清瀬はベッドにひっくりかえった。走はかまわず、清瀬のジャージのズ
ボンの裾をめくりあげようとした。
「ちょっと落ち着け、走! 説明するから!」
取っ組みあう走と清瀬を、ジョージが部屋の戸口であきれ眺めていた。騒ぎに気づき、
王子と葉菜子も隣の部屋から廊下に顔を出した。
「なにごと?」
葉菜子に聞かれ、ジョージは首をかしげてみせる。
「さあ。よくわかんない」
清瀬はようやく走を引きはがし、「入ってきてくれ」と、戸口にいるものに向かって手
招きした。横浜に宿泊したものたちは一室に集い、ベッドや椅子など、思い思いの場所に
腰を下ろした。
「ハイジさん。さっきまで、この部屋に医者がいたでしょう」
走はベッドに座りこみ、清瀬を問いただす。