離れていても、竹青荘にいるときと変わらず筒抜けか。ジョージはぶつぶつ言い、
「走はどうなんだよ」
と、一番聞きたかったことを口にした。「俺が葉菜ちゃんに告こくってもいいのか?」
どうして俺に確認を取る必要があるんだろう。どうも竹青荘の住人たちは勝手に、俺が
勝田さんのことを好きだと思ってるみたいだ。そこまで考えた走の心を、寝入りばなの落
下感に似た衝撃が襲った。
俺、勝田さんのことが好きだ。
双子のことを笑えない鈍さだが、あまりにも静かに、当たり前に胸のうちにありつづけ
た感情だったから、これまで自覚できなかった。
走はいつも、葉菜子の姿を大切に記憶にとどめていた。一緒に歩いた夜に、葉菜子がし
ていたマフラーの色。夏の雲が湧き立つ空の下で、練習を眺める葉菜子の横顔。はじめて
葉菜子を見たときの、商店街を自転車で漕ぎ抜けていく薄い背中。
走は葉菜子を見ていた。そしてそのすべての時間、葉菜子の視線と思いはひたすら双子
に向けられていた。
「そうだったのか」
やっと明確になった自分の気持ちに、走は驚いた。
「……なにが?」
突然ボーッとし、ついで一人うなずいた走を、ジョージは気味悪く思ったようだ。おず
おずと尋ねられ、
「いや」
と走は首を振った。「告白してみたらいいんじゃないかな」
強がりではなく、晴れ晴れとした気分だった。葉菜子はきっと、ジョージの思いを知っ
て喜ぶだろう。もしかしたら、ジョータからの告白に対しても同じように喜び、そこで一
悶着あるかもしれない。だがそこまでは、走の関知するところではなかった。
これは勝負ではない。葉菜子の心は、葉菜子のもの。ジョージの心は、ジョージのも
の。走の心が、走だけのものであるのと同じように。だれも奪ったり曲げたりすることの
できない、あらゆる尺度から解き放たれた領域なのだ。
速度とも勝敗とも関係ない、穏やかだけれど強い感情が自分のうちにあったことに、走
は満足を覚えた。そういう感情を教えてくれた葉菜子が、ますます大切な存在に思えてき
た。葉菜子の恋が成就するなら、走もうれしい。
それに、俺は長距離走に慣れている。じっとチャンスを待つのは得意だ。いま、葉菜子
の気持ちが双子に向いているからといって、未来永えい劫ごうそうだとは言い切れないだ
ろう。
「そっか、やっぱり言ったほうがいいよね。うわー、どうしよう。緊張する」
肝心なところで気長な走が、はじめて自覚した恋心を牛の反はん芻すうなみに みしめ
ているとは気づきもせず、ジョージはなんの屈託もなく、葉菜子に告白する決意を固め
た。
ユキは快調に箱根の山を下っていた。
はじめのうちは、凍った雪ですべることを警戒して轍を走ろうとしたのだが、そうする
とカーブでのコース取りがうまくできない。すべることを気にするあまり、余計な力が
入って、筋肉に負担がかかっては元も子もない。結局、ユキはいつもどおりの走りとコー
ス取りを心がけることにした。
下り坂を走るのは楽しいんだな、とユキは思う。こんな加速を生身の体で感じられるな
んて。正面から顔に当たる柔らかな雪片にすら、小石みたいな痛みを覚えるほどのスピー
ドだ。全身でバランスを取りながら、傾斜の導くままに脚を進める。転倒に対する恐れ
は、スピードの快感のまえに、少しも脳裏をよぎらなかった。
小涌園前が、六区の十キロ地点だ。テレビの中継ポイントでもある。天候も悪く、早朝
であるにもかかわらず、このあたりでは沿道に見物客が出て、声援を送ってくれていた。
ユーラシア大の選手につづき、ユキは右にカーブした。新星大の選手が立てる、水っぽい
足音がすぐ後ろに聞こえる。
ユキはもちろん知るよしもなかったが、アナウンサーと解説者の谷中は、中継映像を見
て各校の選手の走りを論評していた。
「下位チームの十キロ地点の映像が入ってきています。いかがですか、谷中さん」
「いやあ、かなりのハイペースです。六区の区間賞は、現在十二位から着実に順位を上げ
ている真中大かと思っていましたが、下位チームのなかから出る可能性もありますね」
「手もとのデータでは、六道大の田村くん以外は、六区の選手は一万メートルの公認記録
が二十九分台ですが」
「山下りに関しては、平地でのタイムはそれほどあてになりません。一万メートル二十九
分台の力があれば、あとはもう度胸です」
「度胸、ですか」
「はい。選手が体感するスピードと傾斜は、画面で見る以上のものがあります。両手を離
して、急な下り坂で自転車を漕ぎまくっているようなものですよ。しかも今日は、足もと
が悪い。冷静にバランスを取って、なおかつ勢いを殺さない度胸が肝心です」
「下位チームのなかで、どの選手が区間賞に近いと思われますか?」
「まだわかりませんが、寛政大の岩倉くんがいいですね。非常に下半身が安定している。
上体に無駄な揺れがないし、悪路にもかかわらず、まったく腰が引けていません。下りの
お手本のような見事な走りです」
「なるほど。あとは、箱根湯本から先、平坦な道になったときの粘り次第でしょうか。十
キロの中継ポイントでした」
高度が下がるにつれ、雪は雨まじりのみぞれに変わってきた。路面も、シャーベット状
の濁りで覆われている。ユキは、自分が横断歩道の横幅を二歩でまたぎ越してしまったこ
とに気づいた。
いまの横断歩道の幅は、たぶん四メートルはあった。そこを二歩で踏み越えたってこと
は、一足で二メートルも進んでるわけか。ユキは改めて驚いた。すごい加速だ。勢いに乗
り、文字どおり飛ぶように駆けているせいで、歩幅も広がっているのだ。チラッと腕時計
を確認する。この五キロのあいだ、一キロあたり二分四十秒で下るペースだった。
一キロを二分四十。平地では、ユキには出せないタイムだ。こんなペースを平地で五キ
ロも持続できるのは、ユキの知るかぎりでは、走ぐらいのものだ。
道ばたの杉の枝が、真っ白な雪を載せて重そうにしなっている。幹は黒く濡れ、山は一
晩のうちに、単色のうつくしい世界に変わっていた。それらの風景は目の端に映ったとた
んに、後方へ流れる。映画のフィルムよりも速く、なめらかに。
そうか、これはふだん、走が体感している世界だ。ユキは胸が詰まる思いがした。
走、おまえはずいぶん、さびしい場所にいるんだね。風の音がうるさいほどに耳もとで
鳴り、あらゆる景色が一瞬で過ぎ去っていく。もう二度と走りやめたくないと思うほど心
地いいけれど、たった一人で味わうしかない世界に。