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十、流星(6)
日期:2025-06-27 17:11  点击:285

  走が、ときに行き過ぎと思えるほど走りに没頭する理由を、ユキははじめて理解できた

気がした。こんな速度で走ることを許されたら、たしかに中毒のように耽溺してしまう。

もっと速く、もっとうつくしい瞬間の世界を見てみたい、と。それはたぶん、永遠にも似

た一瞬の体感なのだ。だが、危うすぎる。生身の肉体で挑むにはあまりにも苛酷な、うつ

くしすぎる世界だ。

  俺はいま、箱根の山道の力を借りて、そこへ至る門を遠くから眺めたにすぎない。ユキ

はそう考えた。そして、これ以上近づこうとは、やはり思えないんだ。

  清瀬の熱意に巻きこまれ、ユキはこの一年、走ることを中心に生活してきた。でもその

生活も、今日で終わりだ。俺には俺の生きかたがある。瞬間の美と高揚を目指し、心身を

日々研ぎ澄ますのではなく、汚濁にまみれていても、ひとのなかで生きる日々を選びた

い。そのために司法試験を突破し、弁護士になろうとしている。

  今日でおしまい。だけど最初で最後に、このスピードを味わえてよかった。山道を疾走

しながら、ユキはうっすらと笑みを浮かべた。走、あまり遠すぎるところへ行くな。おま

えが目指しているのはたしかにうつくしい場所だけれど、さびしくて静かだ。生きた人間

には、ふさわしくないほどに。

  走の魂を地上に結びつけてくれるものがあるといい。ユキはそう思った。ひとの生活、

ひとの喜びと苦しみのなかに。そこに足をつけてこそ、走はきっと、もっと強くなれるは

ずだから。バランスが肝心だ。雪の山道を駆けくだるときと同じように。

  宮ノ下温泉郷に入り、富士屋ホテル前を通過したユキは、思いがけないものを目にして

短く声をあげた。

「うわ」

  ホテルのまえには宿泊客が大勢出て、箱根駅伝の旗を振っていた。浴衣に丹前を羽織っ

ただけの軽装で、寒さに身を縮めながらも声を枯らすひともいる。ユキはそのなかに、母

親と、半分だけ血のつながった妹、そして母の再婚相手の姿を見つけたのだった。

「雪彦ー!」

  と母親は大声で呼びかけ、

「お兄ちゃん、がんばって!」

  と幼い妹は身を乗りだし、その妹を抱えてやっている義父は、しきりとうなずいてい

た。

「むちゃくちゃ恥ずかしいんですけど……」

  数瞬のうちにホテルのまえを通過したが、ユキはしばらくうつむき加減に走った。正月

を優雅に富士屋ホテルで迎えたのか、あの家族は。照れをごまかすために、ユキは内心で

毒づいてみる。俺を誘っても来られないとわかっていたから、あえてなにも言わずにおい

て、驚かせる算段をつけていたんだろう。それにしても心臓に悪すぎる。母親たちの声と

姿を、テレビやラジオが拾っていないといいのだが。ニコチャン先輩に知られた日には、

絶対にからかわれる。まあ、あのひとはラジオしか持ってなかったはずだから、大丈夫

か。

  ユキは急に、愉快な気分になった。いまのお袋の、あの顔ときたら。自分が走ってるみ

たいに必死で、泣きそうな顔だった。

  ユキは、実の父親のことを覚えていない。ユキが生まれてすぐに事故で死んだので、父

親の記憶は、母親が語ってくれる言葉と写真のなかにしかなかった。父が死んでからずっ

と、ユキは母親と二人で暮らしてきた。ユキは母親を、とても大事に思っている。高校時

代の彼女には、「ユキってマザコンじゃないの」と言われたが、マザコンで当然だろとユ

キは思う。母親を大事にしない息子なんて、ろくなもんじゃない。

  夜遅くまで働く母親の姿を見て育ったためか、ユキは早くから自分の目標を定めてい

た。堅実な職について、母親に楽をさせてあげるのだ。幸い、脳みその出来が悪くないこ

とは、学校生活を送っているうちに判明していた。それなら、最強の資格といわれる司法

試験を目指すのが手っ取り早い。情と論理の狭間で働ける弁護士という職業は、自分に向

いているのではないかと思ったし、なにより稼げそうだ。ユキは高校入学と同時に、独自

に試験に備えはじめた。勉強もしたし、体力作りもした。男女関係の機微にも通じておく

べきかと、女の子ともつきあった。

  しかし、そんなユキの努力を無にするような出来事が起きた。母親が再婚したのだ。相

手はちゃんと稼ぎのある会社員で、母親は働かなくてすむようになった。母親は新しい夫

を愛していて、とても幸せそうだった。ユキが母親にしてあげたかった以上のことを、義

父は軽々としてのけた。

  ユキは打ちのめされずにはいられなかった。プライドがあったし、やると決めたら完遂

しないと気がすまない性分だったので、司法試験を目指すことは諦めなかった。だが、む

なしかった。母親が再婚した翌年には、妹ができた。それもまた、十代後半のユキにとっ

ては、こそばゆさと居心地の悪さとを感じさせる事態だった。大学進学を機に家を出て、

それ以降は正月にもほとんど帰らなかった。

  声援を送ってくれる家族の姿を見て、ユキだけが感じていた些細なわだかまりが溶けて

いく。それに合わせるように、雪もいま、完全に雨になった。

  義父も妹も、ユキを家族の一員として、いつでも気にかけてくれている。そして一番重

要なのは、母親が幸せになったということだ。それでいいじゃないか。それこそが、俺が

ずっと望んできたことなのだから。自分が思い描いてきた筋道とは、ちょっとちがう形で

母親が幸福になったからといって、いつまでも拗ねるのは子どもじみている。

  ユキは白くけぶる呼気にまぎれ、だれにも気づかれずに笑った。いつのまにか、カーブ

の先に帝東大の選手の背中が垣間見えるようになっていた。後ろには気配がない。ともに

スタートした下位チームを、引き離したらしかった。

  腕時計を見て、自分のペースがまったく落ちていないことを確認する。心も体も軽かっ

た。下りはこのまま行ける。肝心なのは箱根湯本から先、ラスト三キロの平地で、走りを

支えきれるかどうかだ。清瀬には昨日、

「下り坂のあとだと、平坦な道でも上りみたいに感じられる。そこからが本当の勝負だ」

  とアドバイスされていた。

  大丈夫そうだよ、とユキは心のなかで答える。今日は負ける気がしない。自分の心身と

の勝負に。

  小田原中継所には、あいかわらず陣太鼓が鳴り響いていた。風祭駅前のカマボコ会社の

駐車場には、大勢のひとが押しかけ、六区の選手の到着を待っている。

「見たか、ジョータ。いまのユキの顔!」

  ニコチャンは富士屋ホテル前の様子を、携帯電話のテレビ機能でしっかりと目撃してい

た。先ほど、電話を入れてきたハイジに教えられてはじめて、ジョータの携帯でもテレビ

が見られることに気づいた。パソコンには詳しいニコチャンも、携帯は通話機能しか使っ

ていなかったし、ジョータもメール止まりだった。機械の進化にあまり興味がないからこ

そ、ボロアパートで満足できるのかもしれない。


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06/28 20:26