「まあ、ぼちぼちやるさ」
「ニコチャン先輩」
清瀬は改まった調子で言った。「一キロ三分ちょいのペースを維持するようにしてくだ
さい。先輩に楽をさせられなくて、すみませんが」
「ハイジよう」
ニコチャンは頭を いた。「楽っていうなら、走らなきゃ楽だったぜ。ダイエットも禁
煙もしなくてすんだんだから。どんなペースだろうと、走りだしたら楽なんてことはねえ
んだ。健康体になれただけで、俺はよしとする。だからおまえも、俺がどんな順位になっ
ても文句言うなよ」
「はい」
清瀬は笑ったようだった。「じゃ、大手町で」
清瀬に言ったことに、嘘はない。走らなければ、楽だった。だが、長いブランクを経て
再び陸上をはじめたことを、ニコチャンは悔いてはいない。走る苦しみは、親しいひとた
ちとひとつの目的に向かう楽しさと混じりあい、甘美なものになった。一人で学費を稼
ぎ、自立した生活を営んできたニコチャンにとって、それは長らく忘れていた味わいだっ
た。
箱根の山から吹き下ろす風を背に受け、ニコチャンは走る。小田原中継所から平塚中継
所に至る七区は、二十一・二キロある。全体的には、平坦で走りやすいコースと言えるだろ
う。往路の四区と同じ道を、東京方面に向けて逆走する形になるルートだが、大磯駅で迂
回路を通るため、そのぶん四区よりも若干距離が長い。
最初の三キロ、小田原の町に入るまでは、ゆるやかとはいえ下り坂だ。ここで調子に
乗ってペースを上げすぎてしまうと、後半がきつい。ニコチャンは興奮と緊張をぐっと抑
え、身の丈に合ったペース配分を心がけた。
ハイジのやつは、本当によくひとを見てるなあ、とニコチャンは思う。ユキから襷を受
け取れば、ニコチャンは発奮する。同時に意地もあるから、舞いあがって前半に突っ込み
すぎないよう自制する。そういう性格と、ユキとの人間関係を読んで、清瀬は七区にニコ
チャンを起用したのだろう。もちろん、アップダウンの少ない七区なら、ニコチャンの脚
に負担がかからず、実力を出しきれると考えてのことでもあるはずだ。
細かい雨が降りつづいている。髪はもうすっかり湿った。空気が乾燥しているよりは、
雨の日のほうが呼吸が楽でいい。風がないのも幸いだ。雨に濡れたうえに、箱根からの寒
風に吹かれたのでは、走るどころではないからだ。気温は一度というところか。七区は寒
暖の差で体力を消耗しやすいコースと言われるが、雨のおかげで今日はその心配もあまり
なさそうだ。これから海沿いの道を走り、昼が近くなるにつれ、もう少し気温が上昇する
かもしれないが。
ただ問題は、濡れて肌に貼りつくユニフォームなんだよなあ。ニコチャンはわずかに顔
をしかめる。体のラインがはっきり出てしまい、裸で走るような心もとなさだ。まあ、も
とから裸みたいなもんだが。
軽い素材で作られたランニングシャツと短パンが、ニコチャンは苦手だった。長距離選
手は男女を問わず、ほっそりした体型をしている。もちろん、強靭でしなやかな筋肉を秘
めているのだが、見た目はほとんどガゼルかカモシカか、といったところだ。そういう選
手なら、必要最小限の布地で作られたユニフォームもさまになるけれど、ニコチャンはい
かんせん、骨が太かった。ダイエットのおかげで無駄な贅肉は減ったが、がっしりした肩
幅や堂々たる腰こし骨ぼねや頑健な大だい腿たい骨こつまで削ることはできない。
そんなニコチャンが、ペラペラの小さな布でできたユニフォームを身に纏うと、肌の露
出した部分がなんだかやけに多いように見えるのだった。しかもいまは、濡れて貼りつい
ているときた。
岩場に打ちあげられた、太めの人魚じゃねえんだからよう、とニコチャンは恥ずかし
い。せめてすね毛のお手入れぐらいしておくべきだったかな。ボーボーに繁らせた脚を丸
出しにした姿が、全国のお茶の間に届けられてしまうとは。
隣を走る選手の脚を、ちらっと眺めた。こいつのすね毛、見苦しくない程度にしか生え
てねえな。生まれつき体毛が薄いのか、ちゃんと手入れしたのか、どっちだろう。そう考
えた次の瞬間、ニコチャンは自ヽ分ヽのヽ隣ヽをヽ走ヽるヽ選ヽ手ヽがヽいヽるヽという
事実に驚いた。気づかぬうちに後続の選手に追いつかれ、抜かれようとしているのか?
ニコチャンは勢いよく隣を確認し、また顔の向きをまえに戻した。
隣を行くのは、東体大の選手だった。東体大は小田原中継所で、ニコチャンより十秒ほ
ど早く襷を受け取ったはずだ。追いつかれたんじゃない、俺が追いついたんだ。ニコチャ
ンは腕時計を見て、自分がペースを保てていることを確認した。よし、とニコチャンは内
心でうなずく。この東体大の選手を引き離すことはできるだろう。
しかし、前方には他大学の選手の姿は見えない。いったい自分が何番目を走っているの
か、繰り上げぶんのタイムを加味すると、実質的にいま寛政大が何位なのか、まったくわ
からない。
濡れたユニフォームも問題じゃないぐらい、心もとない戦いだ。ニコチャンはそう思い
ながら、小田原の町に入った。沿道には応援の人々がひしめきあい、旗を振っている。そ
のなかに寛政大の幟を立て、なにごとか叫ぶ商店街のひとらしき顔があったが、周囲の喧
噪といっしょくたになって、聞き取れなかった。情報は、五キロ地点で後ろの監督車から
もらうしかないようだ。
ニコチャンはとりあえず、ペースを維持することと、宿敵・東体大を突き放すことに意識
を集中させる。監督車に乗った大家だけでは、的確な情報をくれるかどうか不安なところ
だが、大家の背後には、寛政大の影の監督である清瀬がいる。いまこのときも、清瀬は情
報収集に努め、ニコチャンの心を軽くする指示を出すよう、大家にアドバイスしてくれて
いるはずだ。清瀬自身の出番も迫りつつあるというのに。
ニコチャンは、清瀬の監督としての能力を信頼していた。清瀬は寛政大のなかで、走に
次ぐタイムを持つ選手だが、なによりも秀でているのはやはり、ひとを見、ひとを配する
目と手腕だろう。清瀬がいなかったら、箱根を目指そうなどと思いつくことも、本当にこ
こまで来ることも、絶対にできなかった。
竹青荘の住人に対して、清瀬はたびたび強権を発動した。だが、走りに不慣れな住人た
ちを責めたりは決してしなかったし、それぞれの感情と誇りをないがしろにもしなかっ
た。いつでも、住人たちの性格に添った形で、走りと自主的に向きあう方法を丁寧に伝え
ようとした。
一度、陸上で挫折を味わったからこそ、清瀬は初心者がほとんどだった竹青荘の住人た
ちを導けたのだ。優しさと強さ、走ることへの確信と情熱を持って。ニコチャンには、そ
れがちゃんとわかっていた。ニコチャンも、高校まで陸上競技に打ちこんだ経験があるか
らだ。
ニコチャンは大学に入ると同時に、陸上をきっぱりとやめた。走ることに希望を見いだ
せなかった。高校生だったころのニコチャンは、真剣に競技に取り組んだ。目標を立てて
毎日毎日走りこむのは、苦しくて面倒でもあったが、走るという行為自体は好きだった。