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十、流星(9)
日期:2025-06-27 17:12  点击:228

  だが、ニコチャンの体は大きくなり、骨は重くなった。どんなに走ることが好きでも、

タイムで勝敗が決する競技であるかぎり、身体的な適性は必ずある。ニコチャンはもちろ

ん、同年代のおおかたの男より速く長く走れたが、では長距離の選手として競技をつづ

け、うえを目指せるかというと、どうも難しかった。難しいことが、高校三年生になると

明らかになった。ニコチャンの骨格と、脂肪を蓄えやすい体質は、長距離には不向きだっ

た。努力ではどうしようもないほどに。

  大学で陸上部に入り、卒業後は実業団で活躍し、さらには世界を舞台に戦う。そんな選

手が、いったい何人いるだろう。高みを目指せば目指すほど、天てん賦ぷの才さいを持つ

ものの輝きがまぶしく感じられるようになる。自分の実力を把握できるだけの経験と練習

を積んでいるからこそ、決してたどりつけない境地があることを思い知らされる。頑健に

成長をつづける己れの体をまえに、ニコチャンは無力でむなしかった。

  ニコチャンの不幸は、競技選手としてではなくても走りつづけていい、走ることが好き

ならば、それを楽しんでいいのだと、示してくれる指導者がいなかったことだ。まだ若

く、ひたすら陸上に打ちこんできたからこそ、そのときのニコチャンには、選手として大

成できないならすべては無意味だとしか思えなかった。ニコチャンは自分への失望を抱い

て、陸上から遠ざかったのだった。

  長い学生生活のあいだに、一人で生きる術を得たし、陸上以外の経験も積んだ。そして

わかったのは、無意味なのも悪くない、ということだ。綺麗事を言うつもりはない。走る

からには、やはり勝たなければならないのだ。だが、勝利の形はさまざまだ。なにも、参

加者のなかで一番いいタイムを出すことばかりが勝ちではない。生きるうえでの勝利の形

など、どこにも明確に用意されていないのと同じように。

  清瀬も似た考えを抱いていることが、ニコチャンを勇気づけた。高校生のころ、勝利へ

の道はひとつだけだとがむしゃらに信じていた自分が、愛おしくも滑稽に思える。走りか

ら距離を置くことによって大人になったニコチャンは、清瀬への共感と信頼を胸に、再び

走る日々のなかに身を投じた。

  清瀬は優秀な指揮官だ。ひとの痛みを知り、同時に、競技の世界の冷徹さも知ってい

る。価値観のちがいをすべて飲みこみ、なおかつ強靭な精神力と情熱で、寄せ集めのチー

ムを牽引してきた。

  ハイジに情熱を与えつづけたのは、やはり走だ、とニコチャンは思う。清瀬は走を放っ

ておけなかった。傷ついてなおきらめく、走の得がたい才能を。

  すごいのは、二人のウマが合ったことだろう。ニコチャンは鼻筋を伝う雨の粒をぬぐっ

た。走るという行為に限定せず、清瀬と走はあらゆる面において、お互いの存在に刺激を

受けているようだ。ニコチャンにはそう見えた。相手の美点に心を揺さぶられたり、欠点

に腹を立てたり。それはつまり、人間同士のつながりがちゃんとあるってことだ、とニコ

チャンは思う。友情とか愛情とか、そういうきれいで大切なものが、清瀬と走のあいだに

は確実にある。走りでも、心でも通じあえる。そんな二人が出会ったことを、ニコチャン

は奇跡のようだと思うのだ。

  清瀬と走のつながりとぶつかりあいを、ニコチャンはいつまでも見ていたかった。走る

という行為がもたらした、とても貴い形をした人間のありかたを。

  だからこの一年、ともに走ってきた。いまも全力で走っている。小田原の町を抜けたと

ころで、東体大の選手はずるずると後退していった。酒匂川を越えたら、あとは海沿いの

直線道路だ。まえを行く大学の姿を、はたしてとらえることができるか。

  五キロ地点で、背後の監督車から大家の声が聞こえてきた。

「ニコちん、いまおまえは、十三番目を走っておる。三十秒差で、前方に甲府学院大がい

るはずだ」

  七区を走る甲府学院大の選手は、たしか一万メートルのタイムが二十九分十秒台だった

はずだ。ニコチャンよりも格段に走力がある。差を広げられないようにするのが精一杯と

いうところだ。ニコチャンは耳をそばだてて、与えられる情報を分析する。

「なお、繰り上げタイムを加算した、寛政大の正味の順位は」

  大家がマイクを通して声を張りあげた。「六区が終わった時点で、十六位!」

  ユキが六区で区間二位の力走を見せたのに、まだ十六位か。ニコチャンは先行きを思

い、気が遠くなった。だが、昨日の往路を十八位で終えたことを思えば、じりじりとなが

ら再び順位を上げてはいる。ここで諦めず、少しでもいいタイムで襷をつないでいくしか

ない。

「ハイジからの伝言だ。『希望はあります。ペースを崩さないでください』。以上!」

  了承の印に、ニコチャンは軽く右手をあげてみせた。そうだ、希望はある。寛政大が今

回の箱根駅伝で優勝するのは、不可能だろう。すでに往路で十八位に沈み、復路の七区に

至っても、めざましい躍進を見せられずにいる。だが、シード権のある十位以内を狙うこ

とは、まだできる位置だ。

  十位以内を目指すのは、来年、無条件に箱根駅伝に出場したいからではない。十人だけ

で挑んだ戦いに、なんらかの形ではっきりとケリをつけたいからだ。選手がそろうかどう

かもわからないチームが、シード権を獲っても無意味だなどと、二度と言わせないため

だ。

  意味とか無意味とかじゃない。自分たちがしてきたことの証しと誇りのために、いまで

きるかぎりの走りを見せる。

  熱のみなぎったニコチャンの腕が、降り注ぐ冬の雨を弾いた。

  八区を走るキングと、つきそいのムサは、平塚中継所にいた。ウォーミングアップを終

えたキングは、中継所の周辺を走ったり、トイレに行ったりと、一ひと所ところにいよう

としない。中継所にも、行く手の沿道にも、すでに見物客が詰めかけている。キングは緊

張していた。

  落ち着かないキングを、ムサは放っておくことにした。どんな言葉をかけても、キング

は輪っかの玩具をまわしつづけるハムスターのように、うろうろと動くことをやめない。

  まあ、疲れたらおとなしくなるでしょう。レース前に疲れるのは得策ではないけれど、

キングさんの気のすむようにさせておくしかなさそうだ、とムサは判断した。キングは案

外、繊細な神経を持っている。動きを無理に押しとどめたら、緊張が身の内に溜まって爆

発してしまうかもしれない。

  そういうわけで、ムサは中継所の隅に広げたビニールシートに一人で座り、携帯テレビ

でレースの推移をチェックしていた。ユキの活躍に歓声を上げたムサは、いまはニコチャ

ンの走りを見守っている。七区を行くニコチャンの姿を、画面はたまに映しだす。ニコ

チャンは現在、十キロ過ぎの二宮付近を走っていた。川にかかる橋のせいで、いくつもの

細かいアップダウンがあるが、ニコチャンは視線をしっかりと前方に据え、堅実なフォー

ムで脚を運んでいる。

  キングはやっと、一時的に平静を取り戻せたらしい。走るのをやめ、ムサの隣に腰を下

ろした。

「ニコチャン先輩はどんな調子だ?」

  画面を覗くキングに、ムサは毛布を渡してやった。

「ペースは落ちていません。でも、甲府学院大との差は開いていってますね。相手が速い

んです」

  キングは毛布にくるまり、座ったままストレッチをはじめた。


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06/28 20:29