「あんなに興奮してるキングさんって、わりとめずらしいよね」
「早押しのクイズ番組に、テレビの外から参加してるときぐらいだな」
「あ、わかった」
ジョージは解答ボタンを押す真似をした。「東体大の が、八区を走るじゃない? 中
継所で、きっとまたなにか言われたんだよ」
走にも、それが正解だと思えた。キングは怒りのあまり緊張を忘れられたようだからよ
かったものの、そこまで自分は に嫌われているのかと考えると、情けなくなってくる。
傷心を表情には出さなかったつもりなのに、ジョージは敏感に察したようだ。
「放っておけばいいって」
と、走の背中を軽く叩いた。「たしかに、走に一番になってほしいけどさ」
「もちろん、そうなるように走るつもりだけど……」
純粋に走を応援しているだけではなく、ジョージにはほかに含みがありそうだ。走がう
かがい見ると、ジョージは照れくさそうに笑った。
「ハイジさんが大手町のゴールテープを切ったところで、葉菜ちゃんに告白しようと思う
んだ。あー、待ち遠しい」
なるほど、と走はうなずいた。それでジョージは、さくさくとレースが展開することを
望んでいるわけか。
「でもジョージ。ここからだとかなり急いでも、大手町でのゴールの瞬間にまにあうかど
うか、微妙なところじゃないか」
「うっそ、マジで!?」
「たぶん。毎年、テレビ中継を見てるけど、八区を走り終えた選手は、放映時間内に戸塚
から大手町まで戻れていないことが多い」
「どうしよう! 俺、いまから大手町に向かってもいい?」
ジョージは恋のためなら、つきそいの役目も放棄する勢いだ。
「俺はいいけど、ハイジさんにばれて、血の海に沈められると思う」
「そうだよねえ」
ジョージは身をよじるようにして苦悩しはじめた。「やっぱり走に襷リレーされるま
で、ちゃんと見届けなきゃまずいよねえ。葉菜ちゃん、待っててくれるかなあ」
葉菜子なら言われるまでもなく、大手町に双子が来るのを、いつまでだって待つだろ
う。たとえ夜になろうと、大雪に埋もれようと。走はそう思ったが、「どうかな」と言う
にとどめた。走もたいがい鈍感だけれど、ジョージの鈍さときたら、アルマジロの前進す
るさまを見るようにじれったい。この程度の意地悪をしてやってもいいだろう。
あまりにせせこましい意趣返しに、走が内心で己れを笑っているところへ、声をかけて
くるものがいた。
「寛政大はいつも楽しそうだ」
振り返ると、六道大の藤岡が立っている。走とジョージのやりとりを聞いていたらし
い。口もとには寂滅の釈迦を思わせる微笑が浮かんでいた。つるつるに剃った頭部は、薄
曇りの今日も変わらず輝いている。
「ちょっとちょっと、このひとって……!」
と、ジョージは走のジャージの袖を引っ張り、
「あけましておめでとうございます」
と走は挨拶した。
「今年もよろしく、か?」
藤岡は少し茶化すように言い、「とうとうこのときが来たな」と、すぐに真剣な表情に
なった。
「蔵原。俺は九区で区間新記録を出す」
堂々たる宣言に、走は一瞬気を呑まれた。藤岡は、単に区間賞を獲る、と言っているの
ではない。今大会で九区を走る選手の頂点に立つのみならず、箱根駅伝の歴史のなかで九
区を走った、全選手の頂点に立つ、と言っているのだ。
区間新記録。それは箱根駅伝の歴史が積み重ねてきた、偉大なる記録を更新した証し
だ。歴史への挑戦者の立場から、仰ぎ見られ、追い求められる超越者の立場へと転じる、
大きな意味を持つものだ。特に九区の区間新記録は、ここ五年ほどは更新されていない。
箱根を走る選手にとって、区間新記録の樹立はすなわち自身の栄光だった。
「俺は、藤岡さんのその記録を塗り替えてみせます」
昂然と顔を上げ、走は言いきった。「藤岡さんが区間新記録保持者でいられるのは、た
ぶん十分ぐらいだと思います」
走の大胆すぎる宣戦布告に、さすがのジョージも驚きと畏れを感じて身を震わせた。六
道大の藤岡のほうが、どうしたって先に襷を受け取り、走りだすことになる。藤岡が区間
新記録を出したとしても、それは所詮、後発の俺が鶴見中継所に着くまでの「新記録」
だ、と走は言い放ったのだ。
ジョージは、一歩も引かない二人をそっとうかがった。走も藤岡も、闘志とお互いの走
りへの期待を目に宿していた。だれにも触れられず、割りこめない、矜持きようじと矜持
のぶつかりあいがそこにはあった。
王者・六道大の藤岡一真と、寄せ集め集団・寛政大のエース蔵原走。戸塚中継所にいた人々
も、二人が噴きあげる気迫の炎に気づき、胸を高鳴らせた。
とうとう、このときが来た。箱根駅伝のフィナーレを飾るにふさわしい、走りの申し子
たちの激突のときが来たのだ、と。
追うべきものの姿は見えず、急き立て食らいつこうとするものの靴音も聞こえない。ニ
コチャンは一人、海沿いの国道一号をひた走っていた。
見物客が沿道にひしめく。すぐ後ろには、監督車に乗った大家がいる。十五キロの地点
では、寛政大のジャージを着て待ちかまえていた給水要員が、前後の選手とのタイム差を
教えてくれた。それでもニコチャンは、一人だった。海風に千切れる歓声を励みに、「三
分ちょいのペースを守れ」という清瀬の指示を脳髄に木霊させて、黙々と走るしかなかっ
た。
そうだ、このさびしさが長距離だ。ニコチャンは思う。星のない夜空の下を旅するよう
な孤独と自由。限界まで上がった心拍数を、冷える間もなく発熱する汗に濡れた肌を、血
流と連動する筋肉のうねりを、ニコチャン以外のだれも知ることができない。定められた
道のりを走り抜け、定められた場所にたどりつくまで、だれに触れられることもなく、ニ
コチャンは一人、余人の理解が及ばぬ戦いをつづけなければならない。
俺はずっと忘れていた。忘れたふりをしてきた。こうして走ることの切なさと歓喜を。
思い出させてくれたのは、再び味わえる場に導いてくれたのは、竹青荘の住人たちだ。か
つて、陸上をやめたその瞬間から、俺はずっと待っていた。もう一度、機会が与えられる
ことを。陸上に適さぬ俺の肉体を知ったうえで、走ることを愛する俺の魂を、求め、欲し
てくれる存在を。走ってもいいのだと言ってくれる声を。
これが選手としての最後の走りになると、ニコチャンはわかっていた。競技選手への道
はニコチャンには開かれない。激しい練習についていき、なおかつこれ以上の成果を上げ
るのは、ニコチャンには難しい。