ニコチャンは選ばれなかったし、祝福されなかった。もしいるのだとするなら、陸上の
神とでもいうべきものに。走を身近で見ていれば、いやでもわかる。走のように、選ばれ
祝福されたランナーになりたいものだと、ニコチャンは心から願ったが、それは果たされ
るべくもない望みだ。
でも、まあいいじゃねえか、とニコチャンは思う。選ばれなくても、走りを愛すること
はできる。抑えがたく愛しいと感じる心のありようは、走るという行為がはらむ孤独と自
由に似て、ニコチャンの内に燦然と輝く。それを手に入れられたのだから、いつまでもそ
れは残るのだから、もういいのだ。いま自分にできるすべてを最後の走りにこめて、ずい
ぶん長くつづいた競技への物思いは、今日で終わる。
大磯駅前から国道一号を北にそれ、迂回路に入った。残り一キロを切ったところで、ニ
コチャンは前方にはっきりと、中継車の姿を認めた。その陰に、ペースが落ちて後退した
前橋工科大の選手が垣間見える。同時にニコチャンは、背後に迫るものの気配も感じた。
振り向かずともわかる。東体大が追いあげてきたのだ。
心が逸はやったが、ニコチャンはぐっと抑えた。二十キロを走ってきて、体力の消耗が
激しい。あせるな。一キロ三分ちょいのペース。それをまだもう少し保たなければ。仕掛
けるのは、ラスト三百メートルだ。
ニコチャンは体感を信じた。星がなくても海を渡る鳥のように、正確にリズムを刻んで
目的地である平塚中継所へ向かった。中継所からあふれたひとで、沿道の人垣がひときわ
厚くなる。前橋工科大の選手は、完全に顎が上がっているようだ。ここだ、とニコチャン
は直感した。
熱を持った筋肉に鞭打ってスパートをかけ、ニコチャンは猛追を開始する。東体大の選
手が機をひとつにして、弾かれたようにスピードを上げる。喉に薄く血の味がしたが、ニ
コチャンは全身の軋みと苦しみに耐えた。中継所のひとの群れが揺れ、キングがライン上
に飛びだしてきたのが見えた。前橋工科大の八区の選手、そして東体大の も、ラインに
立った。三人は並んで、駆けこんでくるチームメイトに呼びかける。
ニコチャンは襷をはずした。汗を吸いこみ湿ったそれを、命綱のように握りしめる。キ
ングだけしか見えなかった。黒と銀のユニフォームだけを視界に入れて、ニコチャンは
走った。
定められた場所。俺は、還かえってきたのだ。
「俺もやるぜ、ニコチャン先輩」
襷を渡されたキングが素早く囁き、振り返らずに走りだす。ニコチャンは無言でうなず
き、キングの背を押しやった。大手町のほうへ。
ムサが広げたベンチコートに倒れこみながら、ニコチャンはラップを刻む腕時計を止め
た。タイムを競う世界を渡りきったニコチャンには、それはもう必要ないものだった。
ニコチャンの最後の戦績は、二十一・二キロを一時間〇六分二十一秒。区間十二位。
寛政大は平塚中継所を、十二番目で襷リレーした。前橋工科大はその四秒後に、東体大
と同着で襷リレー。
ニコチャンの奮闘の甲斐あって、寛政大は繰り上げぶんのタイムを加算した実質的な順
位も、十五位に上げた。東体大は、見かけでは寛政大に遅れを取っているものの、順位と
しては依然十三位のまま。トップ争いをする六道大と房総大も、房総大が首位を譲らず、
六道大に一分半以上の差をつけている。三位の大和大は、六道大に遅れること三分。
上位校の順位に変動は起こるのか。接戦となった十位近辺の大学のなかで、シード権を
獲得するのはどこなのか。不穏な静けさを秘めて膠こう着ちやくするタイム差は、戦いの
行方をまだなにも語ろうとしなかった。
ニコチャンは中継所の隅に転がって、東の空を見上げていた。希望は潰ついえていな
い。キング、走、ハイジ。走ってくれ、大手町のゴールテープを目指して。俺たちは証明
してみせるんだ。なにが俺たちを、ここまで走らせてきたのかを。
疲労は極限に達していたが、ニコチャンは結末を見届けるために身を起こした。黙って
そばについていたムサが、そっと肩に手を添えて助けた。荷物をまとめたムサとニコチャ
ンは、興奮冷めやらぬ平塚中継所をあとにし、大手町へ向けて発った。
出走する直前のキングに、電話をかけてきたハイジは言った。
「緊張してるか?」
「そういうこと、言わないでほしいんだよなあ。緊張してたのを思い出しちゃったぜ」
「それはすまない」
と清瀬は真面目な声音で謝った。「でもきみは、なにかにつけて緊張してるじゃない
か。試験期間がはじまった、レポートの期限が迫ってる、バイトの面接が明日だ、絶対に
見たいクイズ番組の録画に失敗するかもしれない。よくそんなに緊張の種を見つけられる
ものだと、俺はいつも感心してる」
「喧嘩売ってんのか?」
「いいや。緊張がきみの常態なんだから、緊張してるからっていまさら騒ぐことはない、
と言いたいだけだ」
やっぱり喧嘩を売ってるじゃないか。キングは文句を言おうとして、なぜか笑ってし
まった。鶴見中継所にいる清瀬も笑顔だろうということが、見えもせず聞こえもしないの
に、電波に乗って伝わってくる。
「なあ、ハイジ。おまえ就職活動してるか?」
「していたように見えるか」
「どうすんの? やっぱ、おまえぐらいだと実業団とか行くのか? それとも留年して、
来年も箱根に出るのか?」
言いながらキングは、変なの、と思った。俺はなんで、寛政大が来年も箱根に出られる
と信じて疑わずにいるんだろう。「俺も留年するから、おまえもそうしろよ。そんでまた
一緒に走ろうぜ」と言いたくてたまらないんだろう。
「先のことは全然考えてないし、考えられないな」
と清瀬は静かに言った。「箱根駅伝に出る。四年間、それだけを考えてきたから。もし
かしたらこれは夢じゃないかと、いまも思ってるぐらいだ」
キングは淡く落胆した。心のどこかで、「もちろん来年も走る。きみもだよ、キング」
と清瀬が言ってくれるのではないかと期待していたからだ。だがキングは、そういう自分
の気持ちを表明したくなかった。
「あんなに大変な練習だったのに、夢だったら怒るぜ俺は」
「それもそうだな」
清瀬は含み笑い、すぐにいつもの淡々とした調子で、「キング」と呼びかけてきた。
「八区はきつい区間だ。追い抜かれることがあっても、気にするな。ポイントは十六キロ
過ぎの遊行ゆぎよう寺じの坂。ここまでできるだけスタミナを温存してくれ」
「わかった」
「箱根が終わったら、きみの就職活動を手伝うよ」
「どうやって?」
「リクルートスーツを寝押ししたり、ワイシャツにアイロンをかけたり、さ」
「いらねえ。じゃあな」
携帯電話をムサに預け、キングはジャージを脱いだ。清瀬は「一緒に就職活動しよう」
とも言わなかった。そのことがキングに、わずかに不吉を感じさせた。清瀬はまるで、今
日をかぎりに未来がなくなると考えているみたいだ。