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十、流星(21)
日期:2025-06-27 17:16  点击:205

  後輩たちとともに中継所をあとにする藤岡を、清瀬は静かに見守った。藤岡のチームメ

イトは、だれ一人として気づかないだろう。優勝を決定づける走りをし、区間新記録まで

出した藤岡の胸に、なお満たされぬ空虚があることに。

  藤岡は負けたわけではない。だが、満足していないのだ。その思いが、藤岡を走らせ、

また強くする。

「難儀なものだな、走ることを選んだ人間というのは」

  清瀬はつぶやき、王子に歩み寄った。「走に伝わったようだな」

「はい。いま、大家さんから電話がありましたよ。藤岡さんのタイムを言ったとたんに、

走が意気込んだのがわかったって」

  王子の携帯の画面を、清瀬も覗きこむ。走が映しだされている。中継所まで、あと二キ

ロだ。二十キロ以上を走った苦しさなど微塵も見せず、走はしっかりと視線をまえに向け

ている。

  もうすぐだ。清瀬はジャージのうえから、そっと右脚をこすってみた。布越しに触れる

指を、痺れたように曖昧にしか感じ取れない。だが、痛みも遠い。走れる。

  三位の大和大が、房総大から遅れること五分〇八秒で襷リレーし、そこから中継所はあ

わただしい動きを見せはじめた。北関東大、真中大とつづけて中継所にやってくる。

「横浜大、動地堂大の選手は、中継ラインに」

  係員がメガホンを使って呼びだす。「その次、寛政大の選手も準備してください」

  中継所にいた人々はざわめいた。芦ノ湖で十八番目に、復路のスタートを切った寛政大

が、鶴見中継所を八番目で襷リレーしようとしている。復路の四区間で十チームも抜いた

寛政大の、実質的な順位ははたしていま何位なのか。シード権を獲れるほど、順位を上げ

てきているのか。

  寛政大の十区の走者、清瀬に注目が集まった。清瀬は、人々の視線と囁き声を気にする

ことなく、超然とした態度で中継ラインに向かう。王子も人目など気にもしない。清瀬の

ベンチコートとジャージを受け取り、最後に右みぎ脛すねをちらっと見た。サポーターも

テーピングもしていない。あまりにも無防備に思えて、王子はおずおずと尋ねる。

「ふつう、固定したりしませんか?」

「いいんだ、面倒だから」

  平然と答えた清瀬の言葉には、故障を言い訳にしない覚悟が宿っていた。だったら笑っ

て送りだそう。王子は正面から清瀬を見て言った。

「ハイジさん。僕は楽しかったな、この一年」

「俺もだ」

  清瀬は王子の肩を軽くつかみ、揺さぶってやった。

  中継ラインに立つ。横浜大と動地堂大がかたわらで襷を受け渡したが、もう清瀬の目に

は入らなかった。

  清瀬は、中継所前の側道を見据えていた。九区の最後の百メートル。まっすぐな道を駆

け来る走の姿を。

  はじめて会った夜から、俺にはわかっていた。俺がずっと待っていたもの、ずっと欲し

ていたものは、きみなんだと。

  走は、清瀬の理想の走りを地上に実現してみせる。清瀬が求め、あがき、ついに届かず

に終わろうとしているものを、いともたやすく視覚化してみせる。これほどまでにうつく

しい生き物を、ほかに知らない。

  夜空を切り裂く、流星のようだ。きみの走りは、冷たい銀色の流れだ。

  ああ、輝いている。きみの走った軌跡が、白く発光するさまが見える。

  九区の二十キロ地点で、走は藤岡の出した区間記録を知った。大家の声を耳がとらえ、

体は自動的に反応してスピードを上げる。だが走はあいかわらず、不思議な無感覚状態の

余韻を引きずっていた。

  ランナーズ・ハイになったことは、これまでもあった。心と体が浮き立ち、どこまでで

も走っていけそうになる。いまの感覚は、それとは少しちがった。もっと透徹とした、静

かな恍惚だ。

  入ってくる情報を、分析することはできる。藤岡のタイムは、一時間〇九分。それを越

えられるかどうかは、残り一キロを切ってから、俺がどれだけ粘ねばれるかにかかってい

る。そう判断することはできる。

  しかし、思考する脳の回路とは関係なく、走の意識と感覚の大半は、気づくと遠い岸辺

に運び去られてしまう。神経が覚醒しきっているのに、意識はふわふわと浮遊する。自分

ではどうすることもできない。睡魔の波間を何度も漂うときに見る、妙にリアルな夢に似

ていた。起きて通学の準備をすべて終えたはずなのに、はっと目を開けたらまだベッドに

いて驚く。あれと同質の感覚が、走りながら繰り返し襲いかかってくる。

  気分は悪くないし、実害もない。むしろ、ぬるく持続する快感のなかで、いつにも増し

て走りの切れがよくなっている。ただ、自分がどうなってしまったのか、このトランス状

態がなんなのか、わからなくて不安だ。

  大手町で、ハイジさんに聞いてみよう。俺の経験した感覚を、ハイジさんに話してみよ

う。箱根駅伝が終わったら。

  そう考えた走は、正確なリズムを刻んで走っているつもりだった。ところが、体がふい

にスパートをかけたことに気づき、あわてて周囲の景色を確認する。また、意識がしばし

空白になっていたらしい。いつのまにか、残り一キロを切っていた。走った距離は、道路

端に掲げられるプラカードでわかる。その表示を見て、走の体は勝負どころだと的確に判

断したようだ。

  人垣のうねりと歓声が、奔流のように目と耳に入ってくる。腕時計を確認する。走りは

じめて、一時間〇八分二十四秒。まにあうか。藤岡が出した記録を、塗り替えられるか。

ぎりぎりだ。もう一段加速する。苦しい。鼓動がいまさらのように、頭蓋骨のなかで激し

く響きだした。

  並木を境にした側道にそれ、鶴見中継所前の最後の直線に入る。残り百メートル。ざわ

つく人々の姿が見える。中継ラインが見える。そこに立つ、清瀬が見える。

  清瀬は、立ちつくすと言ってもいいほどまっすぐに、走を見ていた。うれしそうにも、

少し悲しげにも見える顔で笑っている。

  打たれたように、なにかに操られるように、走はかけていた襷をはずした。あと十メー

トル。走ること。襷を渡すこと。それ以外の動きはいまは邪魔だ。呼吸を止めた。まばた

きもしない。体内にある酸素とエネルギーを、最後の数歩に使いきる。

  清瀬が左足を引き、やや体を開いて走に右手を差しだす。走は思いきり右腕をまえへの

ばした。

  もう、名を呼ぶ必要も感じなかった。間近で一瞬交錯した眼差しだけで、すべてが伝わ

る。

  ハイジさん、俺たちはずいぶん遠いところまで来ましたね。言葉も皮膚も最後には意味

をなくす、遠い遠い場所へ、二人で一緒に来たんですね。

  走の手から、黒い襷がすり抜けていった。

  中継ラインを越えて走りやんだ走は、襷をたなびかせて去っていく清瀬の背中を見てい

た。呼吸を再開させ、あえぐようにして空気をむさぼる。心臓が暴れ狂い、肩が上下す

る。舞う雪は、走の肌に触れるとすぐに小さな水の粒に変わった。


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06/28 05:23