日语学习网
十、流星(23)
日期:2025-06-27 17:16  点击:207

  厳しいな、と清瀬は思った。見かけの順番では、東体大は寛政大よりも後ろを走ってい

る。清瀬にとっては、「あの選手を抜けば十位だ」という、わかりやすい指標がない状態

だ。東体大の選手がどんなペースで走っているのか、目にすることができないままに、清

瀬は着実にタイム差をひっくり返さなければならない。もちろん、東体大に見かけの順番

を抜かれることなど論外だ。

  監督車から指示できる一分間が過ぎようとしている。大家は早口でつけくわえた。

「ちなみに東体大は、三キロ通過時点で、一キロ三分〇五秒ペースで走っている。以上」

  見てきたように言う、と清瀬はおかしかった。きっとユキが気を利かせて、収集した情

報を大家に伝えたのだろう。

  俺は一キロ三分〇三秒ペース。東体大の選手が三分〇五秒ペース。十区二十三キロのあ

いだに俺が縮められるタイムは、単純計算で四十六秒だけということになる。これでは逆

転できない。

  ペースを上げる必要がある、と清瀬は判断した。脚が痛みださないうちに、できるだけ

タイム差を縮めるべきだ。

  ちょうど前方に、京急蒲田の踏切が見えてきた。京急本線に合流する、京急空港線の線

路が、道を横切っているのだ。

  タイミングの悪いことに、電車が近づいているらしい。警報機が鳴りはじめた。沿道に

ひしめく見物客が、清瀬と踏切を見比べ、「急げ!」と口々に叫ぶ。遮断機を下ろすこと

はせずに、警察官と係員があわただしく交通整理する。対向車のことは赤い手旗で停止さ

せたが、選手はぎりぎりまで踏切を渡れるようにと、無線を使って連絡を取りあってい

る。

  ここで踏切に阻まれ、足止めされるわけにはいかない。走りのリズムが崩れてしまう。

いい機会とばかりに、清瀬はスピードアップした。止めるな、止めるな、と係員に目で訴

えながら、警告ランプを点滅させる踏切に突っ込んでいく。沿道の人垣からは、まにあ

え、という願いが悲鳴に似た歓声になってほとばしった。

  清瀬は京急蒲田の踏切を通過した。見物客から、今度は安堵のため息が漏れる。勢いに

乗った清瀬は、動地堂大の選手を一気に抜き去った。一キロ三分を切るペースになった

な、と冷静に自分の走りを把握する。いまのところ、脚の痛みはない。

  沿道に途切れることのない観衆。その声援。箱根駅伝を走っている。昨日と今日、竹青

荘の住人たちが味わった高揚と喜びを、寛政大の十人目の走者として、いま俺も体験して

いる。

  ふと、九区を走っていたときの走の姿を思い起こした。観衆の一番多い横浜駅前で、先

行するチームを抜いたのが走らしい。走の走りには華がある。周囲を圧倒するスピードは

もちろんのこと、見せ場を逃さぬ間のよさがある。

  箱根駅伝が、ランナーとしての走をいちだんと成長させたことを、清瀬は確信してい

た。気づいているかどうかはわからないが、走は九区を走りながら、「ゾーン」に入って

いた。高い集中がもたらす、特殊な心身の状態がゾーンだ。苛酷な練習を積んだトップア

スリートが、極限状態となる試合中に、まれにゾーンに入るという。

  清瀬自身は、ゾーンを経験したことはない。ゾーンについての本を読んだ。そのなかで

は、陸上選手に限らず、ゴルフや野球、スピードスケートやフィギュアスケートのトップ

選手が、ゾーンに入ったときの感覚を語っていた。清瀬は最初、ゾーンとはランナーズ・

ハイのことではないかと思ったが、読み進むうちに微妙なちがいに気づいた。

  ランナーズ・ハイは、ジョッグをしていても訪れる。心身の条件がそろったときに、あ

る程度の距離を走りつづければ、ランナーズ・ハイと言われる状態にはなる。

「この調子だと、ランナーズ・ハイになるな」と、慣れてくると事前にじわじわと察せら

れることからも、癖のようなものだと清瀬は思っている。この角度で腕を上げると、よく

肩の関節がはずれてしまうとか、ビールとワインをちゃんぽんすると、なぜか悪夢を見る

ことが多いとか。体が覚えた習慣に、条件反射で脳が起こす現象のような気がする。

  だがゾーンはどうやら、唐突に訪れるらしい。ランナーズ・ハイよりも鮮烈で、瞬間的

に、しかも試合中にのみ起こる。

  闘牛士も、牛を殺す「真実の瞬間」に、時間を超えた不思議な恍惚を味わうことがある

と知り、清瀬は「なるほど」と思った。ランナーズ・ハイとゾーンは、現象は似ている

が、たぶんきっかけとなる回路がちがうのだ。ランナーズ・ハイが体を動かすことで引き

起こされるのに対し、ゾーンは極度に緊張し集中した心理が契機となるのではないか。

  たとえるなら、段階を踏まない、突発的な神がかり状態なのだろう。ランナーズ・ハイ

にしろ、ゾーンにしろ、脳内麻薬の悪戯いたずらにはちがいないが、ゾーンに入るほど競

技に対して集中できるということは、選手として一流になれる適性がある証拠だ。

  走の走りは、横浜駅前を過ぎたあたりで一瞬、いつも以上に切れを増した。携帯電話の

小さな画面越しにも、清瀬にはそれがわかった。そのあと、走は自分の陥った状態に戸

惑っているようだったが、走りの鋭さは持続した。鶴見中継所で、清瀬が襷を受け取ると

きまで。

  走はきっと、多くのひとに愛されるランナーになるだろう。出会いの瞬間から、清瀬の

心をとらえたように。走が走る姿は、見るものを魅了しつづけるだろう。

  清瀬はかつてない充足感を覚えた。顔に当たる雪も、濡れた路面も気にならなかった。

  午後十二時五十分。東京大手町の読売新聞社ビル周辺は、ひとでごった返していた。寛

政大を応援にきた商店街の面々も、沿道での場所取りに余念がない。

  ニコチャン、ユキ、神童、ムサ、ジョータ、そして葉菜子は、人混みを避け、東京駅が

正面に見えるお堀端に座った。ニラも一緒だ。耳のあいだをなでる葉菜子の手の感触を、

目を細めて味わっている。

  打ち上げ準備のため、商店街に残った八百勝にかわり、左官屋がニラを大手町までつれ

てきた。ニラはあまりの人出に怯えたようで、ワゴンから降ろされた途端に、尻尾を股に

挟んでしまった。葉菜子はかわいそうに思い、ニラをお堀端での作戦会議に誘った。「こ

こよりひとが少ないところなら、どこでもいい」とばかりに、ニラは喜んでついてきた。

  作戦会議で活躍しているのは、ユキの秘密兵器であるノートパソコンだ。ユキから託さ

れた葉菜子が、二日間、大事に持ち歩いていた。

「この、直線だけでできた人間、なんなの?」

  ジョータが、ユキの膝のうえに置かれたパソコンを覗きこむ。「三十年前のゲームみた

いな動きだね」

  画面ではいくつかの人型が、ぎこちなく左から右へと移動していっている。

「十区のレース展開をシミュレートしてるところだ」

  ユキはキーボードを叩く手を止めずに答えた。「黒いのがハイジ。青いのが東体大の選

手。ピンクがその他の大学の選手」

「俺が作ったソフトだ」

  と、ニコチャンが補足した。「各チームのこれまでのタイムに、十区の走者の予想ス

ピードを加味して入力すると、予測される十区のレース展開が、絵になって表れる仕組み

だ」

「すごいですねえ」

  ムサは興味深そうに画面を眺める。「おや、ハイジさん人形が、ピンクをひとつ抜きま

したよ」

「動地堂大だな」

  とユキは言い、

「動地堂のことは、さっきもう抜いたよ!」

  とジョータは叫んだ。「現実よりも遅いシミュレーションってどうなの。意味ないじゃ

ん!」

「まあまあ、パソコンも頑張っているようだから」

  マスクをした神童が、鼻声でなだめた。シルバーのボディーは、カタカタとかすかな音

を立てて演算に勤いそしむ。ジョータは、「方眼紙にグラフでも書いたほうが早いよ」と

ぶつぶつ言った。葉菜子も同感だったので、パソコンから話題をそらすことにした。

「ジョージくんたち、遅いね。清瀬さんのゴールにまにあうといいんだけど」

「走と王子さんは、大丈夫そうだよ」

  ジョータは照れてしまって、葉菜子を直視できないらしい。地面に伏せたニラに向かっ

て答えた。


分享到:

顶部
06/27 23:50