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十、流星(25)
日期:2025-06-27 17:17  点击:204

  走っても走らなくても、苦しみはある。同じぐらいの喜びも。だれもが、それぞれの悩

みに直面し、なしとげられないとわかっていてももがいている。

  陸上と少し距離を置くことで、清瀬は当たり前のことに気づいた。どこへ行っても同じ

ならば、踏みとどまって、自分の心が希求することをやり通すしかない。

  清瀬は右脚に爆弾を抱えたまま走った。走りながら、機会を待った。待ちつづけ、とう

とう四年目に走に会った。竹青荘に十人がそろい、いま、箱根駅伝をともに戦っている。

  箱根の山は蜃気楼ではない。箱根駅伝は夢の大会ではない。走る苦しみと喜びに満ち

た、現実の大会だ。それは常に門戸を開いて、真摯に走りと向きあう学生を待っている。

もがきながら走りつづけた清瀬を、待っていた。

  清瀬は元旦に、父親から電話をもらった。袂たもとを分かつように寛政大に入学して以

来、帰省してもほとんど話しかけてこなかったのに。

「新しいテレビを買ったから、母さんと見る」

  と父親は言った。「なかなか愉快なチームのようだな」

  そうだよ、最高のメンバーだ。俺がついに手に入れた、希望の形を見てくれ。走るとい

う行為を、それぞれに体じゅうで表現する、この十人を見てくれ。

  故障し、もとのようには走れないと知ったとき、裏切られたと思った。すべてを捧げた

のに、走りは俺を裏切った、と。でも、そうじゃなかった。もっとうつくしい形でよみが

えり、走りは俺のもとに還ってきてくれたのだ。

  うれしい。涙が出そうなほど、叫びたいほど、喜びで胸は満ちる。

  たとえ、二度と走れなくなったとしても。こんなにいいものが与えられたのだから、そ

れで俺はもう、充分なんだ。

  十三キロ地点にある八ツ山橋のゆるやかな上り坂で、清瀬は横浜大の選手を振りきっ

た。巨大なターミナル駅に集まる何本ものレールが、跨こ線せん橋きようの下を通ってい

る。道は右にカーブしながら、品川駅前へ下っていく。

  雪は降りやんでいた。

  午後一時十四分。東京駅構内から、走は丸の内方面へ走りでた。スポーツバッグを袈け

裟さがけにし、左手には紙袋を持っている。視線は、右手の携帯電話から離れない。王子

からもぎとって、テレビ中継を見ていた。

  横浜大を抜き、六番目に立った清瀬の姿が映っている。アナウンサーは、「寛政大の主

将、清瀬灰二が快走をつづけています」と言った。「ちがう」と走はつぶやく。

  脚が痛みだしたんだ。プレッシャーと寒さが、ハイジさんの体を限界に追いやりつつあ

る。それなのに、ハイジさんはなんでもない顔で走っている。

「走、そこ直進」

  王子が息も絶え絶えになって、後ろから声をかけてきた。走に奪い取られる寸前に、携

帯にユキからのメールが入ったのだ。

「みんな、堀端にいるんだって。大手町じゃなく、そっちに行ってみよう」

  寛政大のジャージとベンチコートを着た一団が、皇居外苑を背にして立っていた。走と

王子に気づき、ニラが跳ねた。車道に飛びださないように、葉菜子が引き綱を強く握る。

ジョージとキングは、まだ到着していないようだ。

「おつかれ!  おめでとう、走」

  とジョータが言った。

「なんかものすごくひさしぶりな気がするなあ、おい」

  とニコチャンは笑う。

「走の走りを見て、アナウンサーがおもしろいことを言っていたよ。ええと……」

  神童はまだ復調できていないらしい。肝心なところで言葉を思い出せず、熱で潤んだ目

をしばたたかせる。ムサが素早くあとを引き取った。

「『黒い弾丸』です。『寛政大の蔵原走、黒い弾丸のような走りです!』と言っていまし

た」

  走は赤面した。

「どうして、こんなところにいるんですか?」

「作戦会議をしてたの」

  葉菜子は役に立たなかった秘密兵器について説明しようとしたが、ユキがさえぎって歩

きだした。

「ゴール付近は、すごいひとでね。避難していたんだが、そろそろ戻ったほうがいいな」

  お堀端を、大手町に向かって歩く。風に乗って、応援部の演奏が聞こえてきた。各校が

競いあって校歌を歌うから、すさまじい不協和音になっている。

  復路十区は東京駅近辺で、往路一区とは異なるルートを取る。往路では堀端の道を通っ

て田町に出るのに対し、復路では二重橋前で右折し、東京駅の東側を迂回する。日本橋を

渡り、皇居を正面に見て大手町に至るルートだ。堀端の道から大手町に向かう走たちは、

ちょうどゴール地点の裏手に出ることになる。

  読売新聞社ビルが近づくにつれ、ひとはどんどん増え、喧噪も大きくなった。熱気のせ

いで、ビル風すらも少しぬくもって感じられるほどだ。

「ここを出たのが昨日のことだなんて思えないよ」

  王子はあたりを見まわした。「百年経ったみたいな気がする」

  オフィスビルの窓には、社員らしき人々が顔を覗かせ、通りを見下ろしている。正月も

働いているのかと驚いたが、よく見ると手に缶ビールを持つひとも多い。どうやら、わざ

わざ出社してきて、特等席でゴールの瞬間を見守ろうということらしい。

  係員は、走たちを寛政大の選手と見て取り、通行止めのロープをゆるめてくれた。ロー

プをまたぎ、ゴール地点に入る。視界が開け、日本橋の方角に至るまっすぐな道が見渡せ

た。

「うわあ……」

  思わず声が出た。広い道路の両側に、四重、五重の人垣ができていた。小旗を持つ見物

客も、各校の応援部も、選手が来るのをいまや遅しと待っている。分厚い人垣は延々と、

東京駅のガード下を過ぎてもまだつづいているようだ。

「ものすごい数だよ」

  ジョータが呆然と言った。

「テレビで見ていたときは、これほどとは思わなかった」

  走はうなずいた。「実際に目にすると、迫力がある」

「たぶん、私が住んでいた町と同じぐらいの人数が、ここに集結しています」

  ムサはあきれたのか感心したのか、ゆっくりと首を振る。

「僕の村の人口より多いのはたしかだ」

  神童は眩暈めまいを起こしたようで、ちょっとふらついた。

  メインアナウンサーと解説者の谷中は、スタジオから移動してきたらしい。読売新聞社

ビルのバルコニーに、マイクを置いて座っている。アナウンサーの声が、テレビのなかか

らのものと、マイクを通してバルコニーから降るものと、二重になって聞こえる。

「東京大手町の気温は現在、〇・四度。雪はやみましたが、風が強く吹いています。最初の

選手はもうあと十分ほどで、このビル風のなかを、ゴールを目指して走ってくるはずで

す」


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06/27 23:48