その瞬間だった。
走は視覚でも聴覚でもない部分で、清瀬に起こった異変を察知した。ハイジさん、と悲
鳴のように名を呼ぼうとしたが、叫びは声にならなかった。
清瀬はふらつき、しかしすぐに体勢を立て直す。スピードは衰えない。ゴールを目指
し、清瀬の走りは力強さを増した。
やめてください、壊れてしまう。二度と走れなくなってしまう。走は焦燥と混乱のうち
に、まわりにいる竹青荘の住人たちを見た。だれも気づいていないのか。どうして。どう
すればいい。ゴールから飛びだして清瀬にすがりつきたい。無理やりにでも清瀬を走りや
めさせなければ、取り返しがつかないことになる。
走は清瀬に視線を戻し、コースに足を踏みだそうとした。目が合った。汗に濡れた清瀬
の顔が、ゆっくりと微笑を象かたどった。すべてをなげうって、すべてを手に入れたもの
の顔だった。
これは競技だ。清瀬の全身がそう言っている。砕けそうに右脚が痛んでいるだろうに、
清瀬の覚悟は微塵も揺らいでいない。惜しくもシード権は逃しましたが、十人だけのチー
ムでよく健闘しました。そんなおためごかしな言葉など欲しくないのだ。俺たちは走る。
最後の最後まで、一秒を争って走る。戦って、自分たちだけの勝利をつかむ。そうじゃな
いか? 清瀬の目が激しく走に告げている。
ああ――。走は立ちすくむ。止めることはできない。走るなと言うことはできない。走
りたいと願い、走ると決意した魂を、とどめられるものなどだれもいない。
走は見た。ふと空に視線をやった清瀬が、大切なうつくしいものを探し当てたように、
透徹とした表情を浮かべるのを。
ハイジさん。あなたは俺に、知りたいと言った。走るってなんなのか、知りたいんだ
と。そこから、すべてははじまった。その答えを、いまならあなたに返せそうです。
わからない。わからないけれど、幸も不幸もそこにある。走るという行為のなかに、俺
やあなたのすべてが詰まっている。
走は確信に近く予感した。俺はたぶん、走ることを死ぬまで求めつづけるのだろう。
たとえばいつか、肉体は走れなくなったとしても、魂は最後の一呼吸まで、走りやめは
しない。走りこそが走に、すべてをもたらすからだ。この地上に存在する大切なもの――
喜びも苦しみも楽しさも嫉妬も尊敬も怒りも、そして希望も。すべてを、走は走りを通し
て手に入れる。
一月三日、午後一時四十四分三十二秒。
清瀬は大手町のゴールラインを越えた。激しく呼吸し、そのまま膝が崩れそうになった
清瀬を、走はあわてて支えた。
竹青荘の住人たちが、次々に走と清瀬に抱きついてくる。叫びはもはや言葉の体ていを
なさない。獣のように吼える。清瀬は輪の中心で、右腕を高く掲げた。その拳には、黒い
襷がしっかりと握られていた。
二百十六・四キロの長い長い道のりを越えて、寛政大学陸上競技部の襷は、再び大手町に
戻ってきた。
興奮した住人たちにもみくちゃにされながら、走は清瀬の肩に手をかけた。清瀬は全身
に脂汗をかいている。
「ハイジさん、早く手当を」
「いい、平気だ」
清瀬は顔を上げ、走の言葉を素早くさえぎった。「いまはここにいたい。東体大は」
走と清瀬は、ゴールラインのほうを見た。東体大の十区の選手が、ゴール手前二十メー
トルに迫っていた。全力でスパートをかけている。
竹青荘の住人たちは、ひとかたまりになったまま呼吸を殺した。その隣では東体大の一
団が、最終走者の名を口々に呼び、「急げ!」と叫んでいる。そのなかには の姿もあ
る。走は を見ても、もう怒りも屈託も覚えなかった。すべての感覚が麻痺している。東
体大の最終走者に対して、スピードを落とせと念じることもできない。
ただ心のどこかで、頼む、頼む、と繰り返すばかりだ。だれに向かって、なにを願って
いるのか、もはや定かではなかった。
東体大の選手がゴールラインを越える。観客は息をのみ、ゴール地点は一瞬の静寂に包
まれた。
「タイムは!」
ユキがじれたように怒鳴る。瞬時ののち、読売新聞社のバルコニーから、アナウンサー
の絶叫に近い声が降ってきた。
「総合タイムが出ました。東体大、寛政大に二秒及ばず!」
今度の喜びは、もう声にもならなかった。走も、清瀬も、ニコチャンもユキも、ムサも
神童もキングも、ジョータもジョージも王子も、無言でしっかりと抱擁しあった。十人は
そのまましばらく、ひとかたまりになってじっとしていた。
「初出場の寛政大が、シード権を獲得しました!」
アナウンサーの声はうわずりながらつづいている。「寛政大の総合タイムは、十一時間
十七分三十一秒で十位。十一位の東体大は、二秒差で涙を呑む結果となりました」
キングが嗚お咽えつをこらえて身を震わせた。神童とムサが、キングの肩にそっと腕を
まわす。ユキははずした眼鏡をニコチャンに渡し、手の甲で目をこすった。ジョージと王
子が両手を打ちあわせる。その横でジョータは、腕に抱いたニラの背中に顎をうずめてい
る。あとからあとから流れる涙が、ニラの毛皮を濡らしていく。
並んで立ちつくしていた走と清瀬は、顔を見合わせた。二人は同時に、腹の底からうな
るように喜びの声をあげた。叫びは狼の遠吠えみたいに伝播し、竹青荘の住人たちはう
おーうおーと口々に言いながら、またひとかたまりになった。
歓喜を爆発させる姿に、いくつものレンズが向けられた。テレビカメラが二台、スチー
ルカメラを持ったカメラマンも五人は集まっている。「シード権獲得、おめでとうござい
ます!」と、インタビュアーがマイクを突きつける。ゴール地点の様子を黙って見守って
いた大家と葉菜子が、竹青荘の住人たちのそばまでやってくる。
走たちはさすがに身を離し、おずおずとあたりを見まわした。まともに言葉を発せない
選手のかわりに、大家がインタビュアーにつかまっている。氷の入った袋を、葉菜子が
そっと清瀬に手渡した。
「ありがとう」
と清瀬は言った。
「清瀬さんのタイムは一時間十一分〇四秒で、区間二位。寛政大は、復路を五時間三十四
分三十二秒で走りました」
葉菜子は泣き笑いのような表情だ。
「ハイジさん……」
自分たちがなしとげたことを改めて理解し、走は呆然として清瀬を呼んだ。「俺たち、
やったんですね」
「ああ」
清瀬の声も抑揚に欠けていた。「箱根駅伝を走り抜いたんだ」
走は清瀬と、一瞬だけ固く抱擁しあった。清瀬は悪戯っぽく走を見た。
「アオタケの住人には底力がある、と俺は言っただろう。まだ信用していなかったの
か?」
「してましたよ!」
走は大声で言った。「信じるなんて言葉ではたりないぐらいに」
清瀬は笑った。心の底からうれしそうに。そして、全員の顔を眺めわたして言った。
「頂点が見えたかい?」