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エピローグ
日期:2025-06-27 17:19  点击:289

エピローグ

  どこかで咲く花の甘い香りが、夕暮れの空気に混じっている。

  竹青荘の住人たちとここへ来たのが、ついこのあいだのように思える。蔵原走は、鉄橋

を渡っていく小田急線に視線をやった。また春が来たのだ。

  電車の窓には、すでに明かりが灯っている。夜の色を宿しはじめた多摩川の流れは、今

日も穏やかだ。河原には人影がない。走はジョッグのスピードを徐々にゆるめた。土手を

数歩下りると、やわらかい草が履き慣れたシューズを包む。

  走は土手に腰を下ろし、対岸のネオンを映す水みな面もを、しばらく見ていた。

「走さん」

  声をかけられ振り仰ぐ。堤防のうえの道に、この春から陸上部に入部する予定の新一年

生が立っている。走がうなずくと、うれしそうに近づいてきて隣に座った。

「ずっとジョッグしてたのか?」

  と走は尋ねた。「あんまり張り切りすぎるなよ」

「いえ、さっきまで商店街に買い出しにいってたんです」

  新一年生は、少し緊張した様子で答えた。「張り切ってるのはジョージさんですよ。

『今夜はパーティーだから』って、肉と野菜を大量に買ってました」

  焼き肉をするつもりだな、と走は思った。そういえばジョータが昼間、クラブハウスの

食堂のおばちゃんから、鉄板を借り受けていた。牛肉を食べたいが、八百勝で買い物もし

たい。双子はそう考えて、メニューを決めたのだろう。

「取り壊すなんて残念ですね」

  と新一年生は言った。「俺も竹青荘に住みたかったな」

「床が抜けるぞ」

「それって本当なんですか?」

「うん」

  信じられないなあ、と新一年生は笑った。

「もうみんな集まってるのか」

  と走が聞くと、新一年生は神妙な顔になって「はい」と言う。

「それでジョッグに出てきたっていうのもあるんです。知らない先輩ばっかりで、どうし

ていいかわかんなくて」

  新一年生は居住まいを正した。「清瀬先輩って、どんなひとなんですか?」

「どんなって……、なんで」

「走さんなら、もっと強い実業団に行けたのに。清瀬先輩がコーチをやってるから、走さ

んはわざわざ新設のチームを選んだんだ、ってジョージさんが言ってました」

「あんまり大きなところは、性しように合わないだけだよ」

「そうですか?」

  新一年生は納得がいかないようだ。「でも俺、ちょっと興奮しちゃったな。清瀬先輩と

会えるなんて。清瀬先輩がアンカーだったときの箱根駅伝を見て、絶対に寛政大に入学す

る、陸上部員になる、って決めたから」

  走は土手の草をちぎり、川べりを吹く風にそっと乗せた。

「冷えてきたな。帰ろうか」

  走が立ちあがると、新一年生もあわててあとについてくる。新一年生のペースに、さり

げなく合わせて走は走った。

「ハイジさんがどんなひとかって質問だけど」

「はい」

「嘘つきだよ」

「え?」

「すごく嘘がうまいから、だまされないように気をつけろ」

  新一年生は困惑したらしく、「はあ」と言った。走はうっすらと笑う。

  大丈夫だ、と言ったのに。やっぱりハイジさんは嘘つきだった。二度と走れなくなるこ

とは、わかっていたはずだ。それでもハイジさんはあの日、嘘をつきとおした。俺との約

束を守るために。俺たち全員で見た夢を、現実にするために。

  あんなに潔いさぎよく残酷でうつくしい嘘を、ほかに知らない。

  原っぱを突っ切り、住宅街のなかの細い道を走る。家々の低い屋根の向こうに、銭湯

「鶴の湯」の煙突が浮かびあがる。あたりはすっかり薄闇に覆われた。通りに面した家の

窓から、夕飯のにおいがあふれ、混じりあって春の空気に溶けていく。

「嘘つきなひとが、監督には向いてるのかな」

  と新一年生はつぶやき、首をかしげた。「箱根に初出場したときも、清瀬先輩が実質的

には監督だったんですよね?  いまは実業団のコーチだし」

「さあ、どうだろう」

  向き不向きなんて、走は考えたこともない。清瀬は清瀬だ。どんなときも飄々として、

選手の身になって考え、走ることをだれよりも真剣に追求する。追求することを、選手に

も厳しく要求する。走ろうとするもの、走りたいと願うもののそばに、清瀬はいつでも変

わらずに寄り添っている。

「ただ俺は、ハイジさんがすべてを教えてくれたんだと思ってる」

  と走は言った。「たったひとつのこと以外は」

「たったひとつのことって、なんですか?」

  走るとはなんなのか。

  清瀬はそれだけは、教えてくれなかった。教えられなかったのかもしれない。

  その答えを知りたくて、走は走る。走りつづけている。頂点を極めたと思ったことも

あった。だが達成感は一瞬で、答えが見えることはない。

「そのうちわかるよ」

  走は静かに、隣を走る新一年生に言った。「走っていれば、いつかきっとわかる」

  角を曲がると、竹青荘の生け垣が見えてくる。にぎやかな話し声。最近は散歩の距離が

短くなったニラが、相槌を打つように吠えている。生け垣の切れ間に消えた新一年生のあ

とに、走もつづいた。

  竹青荘の庭先には、なつかしい顔ぶれがそろっていた。

  ニコチャンとユキが笑いあっている。竹青荘の窓に、明かりをつけてまわる王子のシル

エットが映っている。ムサと神童が焼きあがった肉を運んでいる。キングがニラに酒を舐

なめさせ、大家に怒られている。葉菜子と双子が顔を寄せ、楽しそうになにか話してい

る。

  夢かもしれない、と走は思った。夢のようなあの一年が、戻ってきたのかもしれない。

  走が砂利を踏んで敷地に入ると、鉄板に向かっていた清瀬が微笑んだ。酒の入ったコッ

プを両手に持ち、右脚を少し引きずって歩いてくる。

「おかえり、走」

「ただいま」

  走はコップを受け取った。

  竹青荘の最後の夜だ。走は明日、ここを出ていく。

  帰りたいと願う日が来ても、今夜をかぎりに竹青荘は姿を消す。ここには陸上部のため

の、新しい寮が建つ。だが、さびしさは感じない。記録は塗り替えられて消えていき、あ

とには記憶だけが残るように。なにもかもが失われるわけではないのだと、走はもうわ

かっている。

  竹青荘のすべての部屋に、明かりが灯った。やわらかな光を映す酒を、走はコップをか

ざしてしばし眺める。

「ハイジさん、覚えてますか?」

「なにを?」と聞き返すことはせず、清瀬はただ静かに笑った。

  庭の一角で、ひときわ大きな歓声が湧き起こる。季節はずれの小さな花火が打ちあげら

れ、しけった火薬のにおいが空にのぼっていく。煙が描く白い軌跡を、走は清瀬と並んで

目で追った。

  一瞬の光の粒が、庭にいるものたちを等しく色鮮やかに照らしだす。

  かけがえのないひとたちと、このうえもなく濃密な一年を過ごした。あんな時間は、も

しかしたらもう二度と訪れることはないのかもしれない。それでも。

  ――走、走るの好きか?

  四年前の春の夜。清瀬は走に、そう尋ねた。生きることそのものを問うような、とても

純粋な顔をして。

  ――俺は知りたいんだ。走るってどういうことなのか。

  俺もです、ハイジさん。俺も知りたい。ずっと走ってきたけれど、まだわからない。い

まではもう、走ることがそのまま問いになった。これからも、問いやめることはない。

  俺は知りたいんだ。

  だから行こう。どこまでだって走っていこう。

  確信の光は、いつも胸の内にある。暗闇のなかに細くのびる道が、はっきりと見えてい

る。

「走、早く早く」

  仲間の呼ぶ声に応え、走は清瀬とともに、鉄板を囲むひとの輪へと足を踏みだした。


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06/27 23:56