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【第七章の人々】   大オホ長ハツ谷セ若ワカ建タケルノ命ミコト(雄略天皇)

时间: 2024-03-26    进入日语论坛
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【第七章の人々】
  大オホ長ハツ谷セ若ワカ建タケルノ命ミコト(雄略天皇)
  熾烈を極めた皇位継承者争いに勝ち残った、血塗られた大王
 ヲアサヅマワクゴノスクネ(允いん恭ぎよう天皇)の第四子で、アナホノミコ(安康天
皇)の弟として生まれたのが第二十一代天皇となるオホハツセ(雄略天皇)である。諡し
号ごうは大おお泊はつ瀬せ幼わか武たけるで、そもそもオホハツセが皇位に就く可能性は
低かったが、兄のアナホノミコが殺害されたことが好機となった。
 オホハツセは、その混乱に乗じてマヨワと かつら城ぎ氏のツブラノオホミ、異母兄の
クロヒコやシロヒコ、従兄弟のイチノヘノオシハらを次々に惨殺する。その即位は、血塗
られた争いを潜り抜けて成し遂げられたのである。
 また、即位してからも気性の荒い暴君で、些細なことで怒っては臣下を殺した。大泊瀬
幼武の「武」とは猛々しいことを意味することからも、苛烈な天皇であったと推察され
る。
 即位したオホハツセは、朝廷の実権を握っていた豪族の 城氏を滅ぼし、大おお臣おみ・
大おお連むらじ制と呼ばれる重臣の制度を作った。また、斎蔵・内蔵・大蔵という財政を司
る三蔵の制度を整えたのもこの天皇だという。
 この時代、地方の反乱が頻発したが、これは朝廷からの支配が強まったことへの反発か
ら起こったものであろう。埼玉県の稲いな荷り山やま古墳から出土した鉄剣の銘「獲わ加
か多た支け鹵る大王」とは雄略天皇のことと考えられ、これも大和政権の勢力が広く関東
まで及んできたことの表われである。
 また、中国の史書『「宋書」倭国伝』などに登場する「倭の五王」の「讚さん・珍ち
ん・済せい・興こう・武ぶ」の「武」とは、雄略天皇のことといわれる。朝鮮半島に対す
る政策にも積極的で、倭国への朝貢を顧みなかった新羅に対し、遠征軍を派遣したと伝え
られている。また、高句麗の侵攻によって滅びかけた百済の再興を援助している。
 この頃の天皇は、祭祀を行なう宗教的権威者というだけではなく、経済的基盤も手にし
ていなければならなかった。そのため、代々の天皇は大陸からの文物を積極的に取り入れ
たし、屯田、屯倉と呼ばれる直轄領も経営した。こうした経済基盤をも背景として雄略天
皇は専制君主として、多くの政策を実現していった。
 暴虐ぶりを伝えられる雄略天皇はまた、慈愛に満ちた「有徳の天皇」という一面も持っ
ていたという。臣下の忠告を喜んで聞き入れ、皇后や妃に養蚕を勧めることもあった。
「蚕こを集めよ」と命じられた者が、勘違いをして赤ん坊を集めてしまったため、そのま
ま宮廷の垣のそばに保育所を作って赤ん坊を育てたといった逸話には、雄略天皇の大らか
な一面が表われている。『万葉集』の冒頭歌として知られる「籠もよ み籠持ち 掘串も
よ み掘串持ち……」の、春の野で乙女に語りかけるのびやかな詠みぶりも、天皇として
の自信に裏づけされたものであろう。
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