江戸幕府の支配体制は幕藩体制と呼ばれ、中央政府である幕府と地方政府である藩の二重支配になっていた。将軍は大名に対して朱印状を与えてその知行を保障し、大名は当該知行内に藩を形成し、支配していた。寛文4年(1664年)には全国の大名に一斉に朱印状を交付する寛文印知が行なわれた。なお、将軍の直轄地(天領)では大名の代わりに代官を置いた。ただし、「天領」「藩」の用語は江戸時代においては公式文書で使用されることはなく、明治維新後に正式用語として認められたものである。また幕府も「(御)公儀」と呼ばれていた。
幕藩制度
江戸幕府の支配体制は幕藩体制と呼ばれ、中央政府である幕府と地方政府である藩の二重支配になっていた。将軍は大名に対して朱印状を与えてその知行を保障し、大名は当該知行内に藩を形成し、支配していた。寛文4年(1664年)には全国の大名に一斉に朱印状を交付する寛文印知が行なわれた。なお、将軍の直轄地(天領)では大名の代わりに代官を置いた。ただし、「天領」「藩」の用語は江戸時代においては公式文書で使用されることはなく、明治維新後に正式用語として認められたものである。また幕府も「(御)公儀」と呼ばれていた。
江戸幕府の支配体制は幕藩体制と呼ばれ、中央政府である幕府と地方政府である藩の二重支配になっていた。将軍は大名に対して朱印状を与えてその知行を保障し、大名は当該知行内に藩を形成し、支配していた。寛文4年(1664年)には全国の大名に一斉に朱印状を交付する寛文印知が行なわれた。なお、将軍の直轄地(天領)では大名の代わりに代官を置いた。ただし、「天領」「藩」の用語は江戸時代においては公式文書で使用されることはなく、明治維新後に正式用語として認められたものである。また幕府も「(御)公儀」と呼ばれていた。