伊藤博文の暗殺を受けて、日本の対韓政策は大幅に変更されることとなりました。友好的にやろうと思っていたのを、テロでお返しされたら態度が変わるのも当然です。また、韓国側からも「日韓併合」の提案が起きました。しかもそれは韓国政府からだけではなく、韓国一心会という民間団体が日韓併合の声明書を出したりしたのです。
しかし日本はまだ併合には慎重で、朝鮮半島を領土とすることに対して列国や清国がどう思うかを気にしました。そこで日本は関係国に併合の件を打診したところ、米英をはじめ一国も反対しませんでした。アメリカのルーズベルト大統領などは、「朝鮮半島は日本のものである」と公言したほどです。彼らの条件は、「すでに韓国と結んだ通商条約を廃止しないでくれ」ということだけでした。
日本と同様、韓国も不平等条約を結んでいたので、列国は極めて低い関税で韓国に商品を輸出しており、それを併合後も続けたいという条件でした。また米英の新聞も、東アジアの安定のために日韓併合を支持するという姿勢を示しました。これを見て、日本ははじめて日韓併合条約を結ぶことにしたのです。
日韓併合は、このような慎重な手続を経て実現されました。そして、併合後も朝鮮王族の地位は保全され、皇室に準ずるものとされました。また、朝鮮の貴族も日本の華族と同じ扱いとされました。
結局、日本の朝鮮経営は圧倒的な赤字でした。鉄道や道路、港湾などの社会的インフラが皆無の状況だったため、たいへんな出費だったのです。義務教育もなく、朝鮮総督府はハングルによる義務教育の普及に尽力しました。