第五話 中華そば
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夏の京都へなんか行くもんじゃない。人にはそう言っておいて、今まさに真夏のJR京都駅に降り立っている。小お野の寺でら勝かつ司じは、自嘲するしかなかった。
四年間の大学生活を、京都で過ごしたのは三十数年も前のことになる。夏の暑さと冬の底冷えには辟へき易えきした。とりわけ肌にまとわりつくような湿気を含んだ暑さは、どうにも疎ましかった。街の景色は変わらずそのままだと言えばそうだし、変わり果てたと言っても間違いではない。相変わらず、京都というのは不思議な街だ。
八条口からタクシーに乗り込んで、緩やかなカーブを描く高架を走る。やがて左手に有名ラーメン店の行列が見える。今や一大チェーン店となり、カップ麺も売り出している。
時折り京都を懐かしんで食べるラーメンの味を思い出しながら、リアウィンドウ越しに小野寺は何度も店を振り向いた。
烏丸通を北へ上り、東本願寺を左に見て車は右折する。
「この辺りですかね」
スピードを緩めてタクシードライバーが、道の両側を交互に見渡す。
「その辺で停とめてください。後は自分で捜しますから」黒いボストンバッグを抱えて、小野寺はタクシーを降りた。
「正面通がここで、後ろが東本願寺だとすれば……これかな」ひとりごちて小野寺が二階建てのモルタル建築と地図を見比べた。
看板もなく暖の簾れんが上がっているわけでもない。誰もが民家だと思って通り過ぎる建物が、目指す『鴨川食堂』だろう。小野寺は勢いよくアルミの引き戸を引いた。
「こちらは『鴨川食堂』でしょうか」
小野寺は遠慮がちに中へ入り、店の人間らしき若い女性に訊きいた。
「ええ。お食事ですか?」
「食事もいただきたいのですが、食を捜して欲しくて参りました」小野寺が名刺を差し出す。
「どうぞおかけください。探偵の方でしたら、わたしの担当ですので。鴨川こいしと言います。食堂はお父ちゃんがやってますねんよ」鴨川こいしがぺこりと頭を下げた。若い女性が探偵だということに意表を突か� 进入日语论坛
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第五話 中華そば
1
夏の京都へなんか行くもんじゃない。人にはそう言っておいて、今まさに真夏のJR京都駅に降り立っている。小お野の寺でら勝かつ司じは、自嘲するしかなかった。
四年間の大学生活を、京都で過ごしたのは三十数年も前のことになる。夏の暑さと冬の底冷えには辟へき易えきした。とりわけ肌にまとわりつくような湿気を含んだ暑さは、どうにも疎ましかった。街の景色は変わらずそのままだと言えばそうだし、変わり果てたと言っても間違いではない。相変わらず、京都というのは不思議な街だ。
八条口からタクシーに乗り込んで、緩やかなカーブを描く高架を走る。やがて左手に有名ラーメン店の行列が見える。今や一大チェーン店となり、カップ麺も売り出している。
時折り京都を懐かしんで食べるラーメンの味を思い出しながら、リアウィンドウ越しに小野寺は何度も店を振り向いた。
烏丸通を北へ上り、東本願寺を左に見て車は右折する。
「この辺りですかね」
スピードを緩めてタクシードライバーが、道の両側を交互に見渡す。
「その辺で停とめてください。後は自分で捜しますから」黒いボストンバッグを抱えて、小野寺はタクシーを降りた。
「正面通がここで、後ろが東本願寺だとすれば……これかな」ひとりごちて小野寺が二階建てのモルタル建築と地図を見比べた。
看板もなく暖の簾れんが上がっているわけでもない。誰もが民家だと思って通り過ぎる建物が、目指す『鴨川食堂』だろう。小野寺は勢いよくアルミの引き戸を引いた。
「こちらは『鴨川食堂』でしょうか」
小野寺は遠慮がちに中へ入り、店の人間らしき若い女性に訊きいた。
「ええ。お食事ですか?」
「食事もいただきたいのですが、食を捜して欲しくて参りました」小野寺が名刺を差し出す。
「どうぞおかけください。探偵の方でしたら、わたしの担当ですので。鴨川こいしと言います。食堂はお父ちゃんがやってますねんよ」鴨川こいしがぺこりと頭を下げた。若い女性が探偵だということに意表を突かれて、小野寺は少しばかりうろたえた。
「お客さんか」
白衣姿の男性が厨ちゅう房ぼうから出て来た。
「探偵の方やけど食事も、ですね」
こいしが顔を向けると、小野寺が流に名刺を差し出した。
「小野寺さん。初めての方にはおまかせで出させてもろてますんやが、それでよかったら」
名刺を一いち瞥べつして、鴨川流が言った。
「望むところです」
小野寺がホッとしたように頬を緩めた。
柔和な表情ながら、言葉も態度も隙がない。建前上は娘を探偵に仕立てているものの、実質上はこの父親が探偵だろうと小野寺は推測した。
「すぐに支度しますんで、ちょっと待っとってください」流が踵きびすを返した。
腰を落ち着けて、小野寺は改めて店の中を見回した。ガランとした店内には女性客がひとり居るだけだ。一番奥のテーブル席で着物姿の老婦人が音を立てて抹茶を啜すすり終えた。食堂の佇たたずまいとまるで釣り合わない情景に、小野寺はしばらくのあいだ目を奪われていた。
「どちらからお越しに」
視線を返して老婦人が小野寺に訊いた。
「東京から参りました」
「わたしのような年寄りは東京では珍しいのですか」老婦人はいくらか語気を強めた。
「お着物の似合う方が東京には少なくて、つい見とれてしまいました」小野寺が軽く会釈した。
「妙たえさんみたいな人は京都でも珍しいんですよ。姿勢はええし、こんな暑い日でも汗もかかんと涼しい顔して、着物でご飯食べはる。うちの憧れですねん」こいしが来くる栖す妙にほうじ茶を出した。
「おじょうずなこと」
流し目を送って、妙が唐津焼の湯ゆ呑のみを掌てのひらに載せた。
「すみません。喉が渇いたのでビールを」
小野寺が首筋の汗を拭った。
「中瓶しか置いてへんのですけど」
「それでけっこうです」
こいしが栓を抜いてコップと一緒にビールを置いた。
「大学時代を京都で過ごしましたが、京都という街には本当に着物が似合いますね」一気に飲み干して、小野寺が妙に笑みを向けた。
「どちらの学校に?」
「『洛らく志し館かん大学』です」
「学生生活を存分に楽しまれたんでしょうね」妙が幾らか冷ややかに言った。
「おかげさまで」
小野寺がコップにビールを注ぐと泡が溢あふれた。
「なんや曰いわくがありそうな話ですね」
こいしが益まし子こ焼の土瓶を傾けて、妙に茶を注いだ。
「今ではそうでもないのでしょうが、三十年ほども前に『洛志館大学』に行くというのは、遊びに行くのと同じだったんです。本気で勉強したくて京都に行くヤツは『京南大学』。遊ぶなら『洛志館』というのが通説でしたよ」小野寺が薄く笑って、コップを空にした。
「そういう大学があるからこそ、いろんな人材が生まれましたんやけどな」流が小野寺の前に黒塗りの折お敷しきを置いた。
「そう言っていただけると」
小野寺がビール瓶を傾けた。
「タレントもようけ居ますし、経済界でも『洛志館』の出身者は幅きかせてますがな」利休箸と染付の皿を、流が折敷に並べた。
「うちの友達にも『洛志館』は多いなぁ」
こいしが言葉を挟んだ。
「夜遅くまで騒いでいる学生はたいていそうです」妙がぴしゃりと言った。
「僕もそのクチでした」
頭をかく小野寺の前に、流が大ぶりのガラス皿を置いた。
「こんな感じにさせてもらいました」
「ほう」
小野寺が前のめりになって、目を輝かせると、流が料理の説明を始めた。
「京都の夏というたら、やっぱり鱧はもと鮎あゆは欠かせません。ガラスの大皿に盛り込んでみました。左の上から鱧の小こ袖そで寿ず司し。照焼きと白焼きをひと切れずつ。その横の小さい鉢に入ってるのが鱧皮の酢のもん。ァ’ラと和あえてます。笹ささの葉の上が鮎の塩焼き。桂かつら川がわで釣れた小ぶりのを二匹。ガラスの猪ちょ口こに入ってるのは鮎のうるか。言うたら鮎の塩辛みたいなもんです。右の中ほどが稚鮎のフライ。山椒さんしょう塩がふってありますんで、そのままで。右下の大葉の上は鱧の落とし。梅肉とミョウガを和えてあります。左の下は鱧の挟み焼き。山やま科しな茄な子すを挟んで白味み噌そで焼き上げました。どうぞゆっくり召し上がってください」説明を終えて、流が一礼した。
「ビール、どないしましょ。よかったらお酒もありますけど」空になった瓶をこいしが手にした。
「いただきます。この料理を前にしてビールというわけにはいきません」料理を見回して、小野寺が舌なめずりした。
「福島の蔵ですけどな、うちの料理によう合う酒が入りましたんや。それをお出ししますわ」
流が厨房に急いだ。
「どうぞごゆっくり。お先に失礼します」
会釈して、妙が店を出て行く。小野寺は腰を浮かせて会釈した。
妙の背中を見送ってから、小野寺が最初に箸を付けたのは、鮎のうるかだった。小豆粒ほどを箸先に載せ、口に運ぶ。小野寺はうっとりと目を閉じる。
「遅ぅなりましたな。『人気』っちゅう酒です。夏場だけの限定品でして、夏生純米吟醸ですわ。十度ほどに冷やしてあります。ゆっくりやってください。適当なところでお声をかけてもろたらお椀わんをお持ちします」
銀盆を小脇に挟んで流が下がって行った。
江戸切子のロックグラスになみなみと注がれた酒を、小野寺は口から迎えに行く。喉を二度ほど鳴らし、口をつぼめて息を吐いた。
「いい酒だ」
鱧の挟み焼きは微かすかな白味噌の甘みが新鮮だった。学生時代に鱧などは縁遠く、会社を興してから京都で食べた鱧は、いつも同じような味だった。割かっ烹ぽうの主人から、京都の夏は鱧に限ると言われても実感はなかったが、この鱧を舌に載せて確信した。
京都の夏は鱧に限る。
鱧だけではない。鮎の旨うまさといえば、これも尋常ではない。塩焼きはもちろんのこと、小指にも満たない小さな鮎のフライは、ほろ苦くて、清流の香りすら漂わせ、山椒の香りも相まって、小気味いい後口を舌に残す。
大きくはないが、零細とまではいかない会社を興し、東京ではそれなりの店で日本料理を食べて来たが、やはり京都のそれには到底敵かなうものではない。しかもここは祇ぎ園おんの名だたる割烹などではなく、探偵事務所に付属する食堂なのである。
「お口に合いますかいな」
流が小野寺の横に立った。
「さすが京都ですね。とても東京じゃあ味わえない」「お酒は足りてますやろか」
流が切子のグラスを覗のぞいた。
「もう少しいただきたいところですが、肝心の話もありますので」「そしたらお椀をお持ちします。ご飯も一緒に持って来てよろしいかいな。鮎飯を炊いてますんやが」
「お願いします」
流が厨房に向かうと、小野寺は残った料理を見回しながら、切子のグラスを傾けた。
するすると酒が喉を滑っていく。本来の目的を頭に浮かべると、いくらか酒が苦くなったような気がした。
「お待たせしました。ありきたりですけど、この季節の椀ものというて、牡ぼ丹たん鱧を外すわけにはいきまへん。鱧の湯引きを吸いもんにしてます。骨切りした鱧が牡丹の花みたいに見えまっしゃろ。鮎飯は鮎の身しか入ってしません。骨は抜いてありますさかい、刻み三ツ葉を載せて召し上がってください。茄子とミョウガの浅漬を添えてます。番茶をお持ちしますんでごゆっくり」
流が居なくなるとすぐ、小野寺は椀を手にした。
微かに昆布の香りがする。鱧は舌の上ではらはらと崩れる。吸い地の味わいが心に沁しみ入るようだ。胸の高ぶりを抑えながら椀を置いて、古こ伊い万ま里りの飯めし茶ぢゃ碗わんにこんもり盛られた鮎飯を口に運ぶ。噛かみ締める。ほろ苦い鮎と噛むほどに甘みを滲にじませる米とが絶妙の調和を見せる。旨い。
「暑いときに熱いほうじ茶もええもんでっせ」流が信しが楽らきの土瓶を傾けた。
「いやあ本当に美お味いしくいただきました。本物の京料理に出会えた気がします。思いがけず、といえば失礼になるのでしょうが」
手を合わせて小野寺が箸を置いた。
「好き勝手に作らせてもろてます。京料理てな立派なもんやおへん」空いた器を下げて、流がテーブルを拭いた。
「学生時代に恩師に連れられて、何度か祇園の割烹でも食べましたが、記憶にも心にも残っている料理はありません」
「若いときと、歳としを重ねてからでは感性も違いますやろ。食べもんというのは、味だけやおへん。感じ方が違うて当たり前やと思います」小野寺は黙ってうなずいた。
「娘が奥の事務所で待ってますさかい、そろそろご案内しまひょか」「お願い出来ますか」
茶を飲み干して、小野寺が腰を浮かせた。
食堂の奥に続く細長い廊下を流が先導し、小野寺が後に続く。廊下の両側にびっしり貼られた写真に小野寺が見とれている。
「たいていの写真はわしが作った料理ですわ」流が振り向いた。
フレンチ風の皿があれば、鍋料理もある。おせち料理や、パーティー用なのか、大皿料理がずらりと並んだ写真も貼られている。歩きながら眺めるうち、廊下の奥に行き当たった。
「どうぞお入りください」
流が突き当たりのドアを開けると、ソファに腰かけるこいしの姿が見えた。
「早速ですけど、簡単にご記入いただけますか」向かいに座った小野寺に、こいしがバインダーを差し出した。
ホテルの宿帳に記入するかのように、スラスラとペンを走らせて、小野寺がバインダーをこいしに返した。
「おのでらかつしさん。東京都目黒区……」
「かつじ、です。おのでらかつじ」
こいしが読み上げるのを小野寺が制した。
「失礼しました。シアタープリント株式会社、取締役社長。印刷会社をやってはるんですか」
「『洛志館』を卒業して、東京に戻ってから、わたしが作った会社ですので、大したものじゃないんですが」
「名刺とか年賀状とか、ですか」
「それもやらないことはないけど、うちはCDのジャケット印刷に特化しています。自慢話をさせてもらえば、国内でのシェアは五割を超えている。もっともCD自体が減ってきてはいるんですがね」
小野寺が自慢とも自嘲とも判別出来ないような、複雑な笑みを浮かべた。
「うちのお父ちゃんは、演歌が好きなんですけど」「演歌だとシェアはおそらく八割を超えているでしょう」「お父ちゃん、喜ばはるわ。それは横に置いといて、と。で、何を捜したらええんです?」
こいしが両膝を前に出した。
「お恥ずかしい話だが、屋台のラーメンなんですよ。いや、屋台のァ′ジはいつも中華そばと言ってたから、屋台の中華そばかな」
「どこの屋台です?」
ノートを開いて、こいしがペンを構えた。
「『洛志館』に入ってすぐ、わたしは演劇部に入部しましてね。國くに末すえと矢や坂さかという同級生と、男三人で演劇グループを作ったんです。〈ラディッシュボーイズ〉というグループ名を付けて。決められた講義の半分にも出なかったかなぁ。学校に行った日も、行かない日でも毎日、陽ひが沈むころに北大路橋の下に集まって、そこで練習するんですよ。その橋の畔ほとりにあった屋台」
「北大路橋の畔の屋台。店の名前は?」
「名前はなかったんじゃないかなぁ」
「いつごろの話になるんかなぁ」
こいしが電卓を取り出した。
「昭和五十年ころ。五十四年に卒業したときは、まだ屋台があったように思います」小野寺の言葉を、こいしがノートに書き留めている。
「橋のどっち側でした?」
「比ひ叡えい山ざんと反対側だから……」
小野寺が地図を頭に浮かべて言いよどんだ。
「西側やね」
こいしがきっぱりと言い切った。
「三回生のころに北大路橋の上を走っていた電車が無くなった。そんな時代の変わり目だったんでしょうね」
小野寺が遠くに目を遣やった。
「どんな中華そばやったんです?」
「屋台らしい味と言えばいいのかな。今のラーメンのように脂ぎってないし、かと言って、あっさりはしてない。しっかりお腹なかに残る中華そばでした」「屋台のラーメンていうたら、コッテリしてるんでしょ?」こいしがペンを構えた。
「そこが微妙なんですよ。どろっとしていて、濃厚なスープだったことはたしかなんだけど、背脂がいっぱい浮いているような今風のラーメンとは違って、なんていうか、やさしい味でした」
「そんなん、食べてみたかったなぁ。屋台のラーメンて、うちらのころにはなかったんですわ」
「あのころの京都には、あちこちに屋台のラーメンがありましたよ。出で町まちの桝ます形がたなんかには四軒くらいあったかなぁ」
「けど、なんで今になって、その中華そばを?」こいしがノートを繰って、新しいページを開いた。
「跡を継ぐはずだった息子がね、突然イヤだと言い出しまして。役者になるって言うんですよ。食っていけるわけないのに」
小野寺が顔をしかめた。
「夢があるて、ええことやないですか。お父さんの血も引いてはるんやろし」こいしが言った。
「夢なんてのは、いつまで経たっても夢のままだ。現実はそんなに甘いもんじゃない」「そのことと屋台の中華そばが、どこで繋つながるんです?」「わたしも同じような夢を持ったときがあった。そのころによく食べていたのが、その屋台の中華そばだったんです」
小野寺がローテーブルの一点を見つめて続ける。
「大した会社じゃないから、息子に無理強いはしたくない。好きな道に進めばいい、とも思うんだが、将来を考えると、これでいいのかと迷うんです。ちょうどわたしが同じ年ごろに迷っていたように」
小野寺が遠くに目を遣った。
「夢と現実。男の人は大変なんですね」
こいしの言葉に、小野寺は当時を思い出しながら語る。
「男ってのはね、食い扶ぶ持ちのことばかり考えていてもつまらないし、かと言って、夢を追い続けてばかりだと、きっといつか挫折する。家族でも持つとなったら、ちゃんと食っていける方法を選ばなきゃいけない。どこかで妥協する道を探すことになるんです」「息子さんは、夢を追う方を選ばはった」
「そんな夢が叶かなう人間なんて、何万人にひとりも居やしない」吐き捨てるように小野寺が言った。
「けどゼロでもないでしょ」
こいしが言った。
「夢を持っている息子に、ノーと言いながら、どこか心の片隅でイエスという答えも浮かんでいる。それを辿たどっていくと、屋台の中華そばに行き着いたというわけなんです」小野寺がこいしを真正面から見つめた。
「その中華そばを食べてから、息子さんと話し合わはるんですね」こいしがその目を見つめ返した。
「そこまではわかりません。もう一度話し合うとか、そういうことじゃない。自分の気持ちを見てみたい。それだけなんです」
「わかりました。とにかく捜し出して、食べてもらわんと何も始まりませんわね。ヒントは場所だけ。まぁ、お父ちゃんやったら捜さはるでしょ」こいしがノートを閉じた。
「よろしく頼みます」
小野寺が頭を下げた。
食堂に戻ると、カウンター席に腰かけていた流が、読んでいた新聞を畳んだ。
「あんじょうお訊きしたんか」
「ちゃんと訊かせてもろた。屋台の中華そばやて。頑張って捜してや」こいしが流の背中をはたいた。
「ほう。屋台の中華そばですか。懐かしいですな。昔は京都にもようけ屋台がありました」
立ち上がって流が小野寺に顔を向けた。
「今はもうないので難しいかと思いますが」
小野寺が右の頬を緩めた。
「せいだい気張らせてもらいます」
流が小さく会釈した。
「お勘定を」
小野寺が内ポケットから長財布を取り出した。
「この次、探偵料と一緒にいただきます」
こいしが微笑ほほえんだ。
「わかりました。次はいつお邪魔すれば……」小野寺が流とこいしの顔を交互に見た。
「二週間後くらい、でよろしいかいな。詳しいことはまたお電話ででも。携帯の方に連絡させてもらいます」
流が小野寺の名刺を見ながら答えた。
「よろしくお願いします」
ボストンバッグを手にして、小野寺が店を出る。
「今日はこれから?」
流が訊いた。
「久しぶりの京都なので、想い出の場所を訪ねてみようかと」小野寺は眩まぶしそうに夏空を見上げた。
「日差しがキツイさかいに気ぃつけてくださいね」こいしが声をかけると、トラ猫が足元に寄って来た。
「こら、ひるね。店に入ったらあかんぞ」
屈かがみ込んで、流がにらみつけた。
「やっぱり京都は暑いですなぁ」
正面通を東に向かって歩いて行くのをたしかめて、流とこいしは店に戻った。
「北大路橋の西北か。そんなとこに屋台のラーメン屋てあったかなぁ」カウンター席に腰かけた流が、ノートの字を追った。
「ラーメンと違うて、中華そばなんやて」
ダスターでテーブルを拭きながら、こいしが流に顔を向けた。
「印刷会社をやってはるのか。シアタープリント……」流が小野寺の名刺をノートに挟んだ。
「とにかく現場へ行ってみんことには、始まらんわな。明日にでも行ってみるか」「北大路橋ていうたら、あの植物園の近くやね。こないだお花見に行った、半なか木らぎの道のとこと違うん?」
「そや。北大路通の橋から西は、昔からある商店街やさかい、行ったら何かわかるやろ」流がノートを閉じた。
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