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勝負服という軽い言葉を初子は好まないが、意気込みはそれに通じるものだ。コートを赤に替え、バッグもそれに合わせて深紅に替えた。
目指す建家が目に入り、初子は歩みをいくらか遅くした。
「ひるねちゃん、また来たよ」
屈み込んで初子がひるねの喉を撫でる。
「ひるね、初ちゃんのお洋服よごしたらあかんよ。きっと高いねんから」引き戸を開けて、こいしが出て来た。
「大丈夫よ。ひるねちゃんはおりこうだから」立ち上がって初子が、軽くスカートの裾を払った。
「お父ちゃん、お待ちかねやよ」
こいしが初子の背中を押した。
「なんか緊張するな」
初子は胸に手を当て、深呼吸してから店の敷居をまたいだ。
「ようこそ」
流が笑顔で迎えた。
「今日はよろしくお願いします」
初子がぎこちなく挨拶した。
「京都は寒いやろ」
赤いコートを脱いだ初子にこいしが言った。
「東京とは寒さの質が違う気がするわ。でも、今日はそれほどでもないんじゃない?」「準備万端やさかい、いつでも言うてや」
流が茶を出した。
「ありがとうございます。少し心の準備をしてからにします」初子が何度も肩を上げ下げしている。
「お酒でも持ってこうか?」
こいしが初子の顔を覗き込んだ。
「酒は後にした方がええ。初子ちゃんには、子供のころに戻ってもらわんならんからな」「もう大丈夫です。お願いします」
息を整えて、初子が背筋を伸ばした。
「三分後に持ってくるわな」
流が厨房に入っていった。
初子は目を閉じて口をすぼめている。
冬の乾いた空気が店の中にまで入り込んでいるのか、厨房の小さな音までが客席に響く。〈チン〉と電子音がして、レンジの扉を開け閉めする音が聞こえる。
「さぁ出来たで」
流が小走りでアルミトレーに焼飯を載せて運んで来た。
「初子ちゃんが子供のころにしたように、電子レンジで温め直した。皿が熱ぅなってるさかい、やけどせんようにな」
初子の前に白い丸皿を置いて、その横にスプーンを並べた。皿全体を覆うラップの内側が湯気で曇り、中身はぼんやりとしか見えない。
「もう外していいですか?」
初子が見上げると流がこっくりとうなずいた。
「わしが外すより自分で取った方がええやろ」流の言葉に笑みを返して、初子がラップを取ると勢いよく湯気が上がった。
「ゆっくり食べや」
流がこいしに目配せして、ふたりは厨房に引っ込んだ。
「いただきます」
かすかな湯気と共に立ち上がって来る香りに、初子は鼻をひくつかせた。スプーンで浅く焼飯を掬すくい、ゆっくりと口に運ぶ。目を閉じて噛みしめる。十回ほども噛んで大きくうなずいた。
「これだわ」
初子は何かに急せき立てられるように、立て続けにスプーンを動かして焼飯を食べ続けた。
「美味しい」
半分以上も食べて、初子が小さくつぶやいた。
「どないや。こんな味やったか?」
有田焼の急須を持って、流が初子の傍らに立った。
「はい」
初子がつぶやくように答えた。
「そうか。よかった。たんと作ったさかい、ようけ食べてや」湯呑に茶を注いで、流が初子に言った。
「おじさま、この……」
「まずはしっかり食べて。話はそれからや」
初子の言葉を制して、流が再び厨房に戻った。
ふたたびスプーンを手にした初子は、じっくりと味わいながら焼飯を食べる。ひと匙さじひと匙、慈しむようにして舌に載せる。それを何度か繰り返すうち、幼いころの記憶がはっきりと蘇よみがえって来た。
学校からの帰り道。〈背高のっぽのァ∪コァ◇ナ〉とからかわれて泣きながら帰ったこと。鍵を開けて家に入ったら大きな蜘く蛛もが居て怖かったこと。留守番をしていた大雨の日に、突然雨漏りがしてバケツを探したこと。赤い洋服ばかり着せられるのがイヤでイヤで仕方なかったこと。辛つらかったことばかりではない。家族揃って諏す訪わ崎ざきへ遊びに行って、綺き麗れいな夕ゆう陽ひを見たこと。お弁当を持って、喜き木き川がわへ花見に行ったこと。
自らに課して、長い間閉じ込めて来た過去が一斉に開いた。
気付くと皿が空になっていた。
「すみません。お代わりください」
満面に笑みを浮かべて、流が厨房から出て来た。
「嬉しいやないか。お代わりしてくれるんかいな」「いくらでも食べられそうです」
初子も同じくらいの笑顔を見せた。
「その言葉を聞いて、おっちゃん、ホッとしたわ」トレーに空の皿を載せて、流が踵きびすを返した。
初子は子供のころに、お代わりがしたくて台所中探し回ったことを思い出した。冷蔵庫の中、水屋、踏み台を持って来て、天袋の中まで覗き込んでも見つからず、ひもじい思いで水を飲んで腹をふくらませたのだった。
「さっきの半分くらいにしといたけど、足らんかったら言うてや」流が初子の前に焼飯を置いた。
「ありがとうございます。たぶんこれくらいで足りると思います」初子がスプーンを取って、焼飯を掬った。
「ええ食べっぷりやな。子供のころに戻ったんと違うか」流が目を細めた。
「こんなにたくさん食べるのって何年ぶりかしら。さっきから不思議で仕方ないんです。
スプーンを止められなくて」
「美味しいものを前にして、無心で食べられるいうのは子供だけや。大人になったら、やれ健康にどうたら、ダイエットがどないやとか、余計なことを考えるさかいにな。まさに初子ちゃんは童心に返ったわけや」
流の目がより一層細くなった。
「どうやってこの焼飯を見つけられたのか。そろそろお聞かせいただけますか」皿の半分ほども食べ進んだところで、初子が流に訊いた。
「一杯飲もか」
流が指で杯を真ま似ねると、初子はにっこり笑った。
「そんなことやろうと思うて、ちゃんと用意しときました」塗の盆に信しが楽らきの大徳利と杯を三つ載せて、こいしが厨房から出て来た。
「こういうことになったら、よう気が利くんやな」流が初子の真向かいに座った。
「見つかってよかったな。うちもホッとしたわ」こいしが杯を上げ、流と初子もそれに合わせた。
「八幡浜へ行って来たんや」
飲み干して、流が口を開いた。
「遠いところまでありがとうございました」
初子が頭を下げた。
「残念ながら、白崎さんのことを知ってる人には会えなんだが、お母さんがパートに出てはった会社のことは分かった。今はもう無いんやが『愛八食品』という会社でな。日本で最初に魚肉ソーセージを売り出したとこや。それでピンと来た。ピンクの正体はこれやな、と。初子ちゃんも食べてて分かったやろ」流がビニール袋から魚肉ソーセージを出して見せた。
「そう言えば冷蔵庫にあったような……」
初子が記憶を辿たどっている。
「現地で買こうて来たんやが、肉屋で訊いたら、このメーカーのが一番当時の味に近いんやそうな。それともうひとつのピンクはこれや」流が魚肉ソーセージの横に置くと、こいしと初子は同時に声を上げた。
「何これ?」
「削りかまぼこて言うてな、八幡浜の名産品や。削り鰹かつおみたいにして、かまぼこを削ったもんやそうな。乾燥しとるさかい日持ちがする。冷蔵庫の無い時代に考え出したんやと思う。ちらし寿司に載せたりしてたんを、お母さんは焼飯の具にしはったんやな。そのまま食べてもええ酒のアテになるで」
袋を開けて、流が摘んだ。
「魚肉ソーセージだけじゃなかったんだ」
初子も削りかまぼこを摘む。
「どっちも原料は魚やさかいに、焼飯が魚っぽい味になったんやね。綺麗なピンク色してるわ」
こいしが削りかまぼこを掌に載せた。
「ここから先はわしの想像でしかないんやが、お母さんはきっと初子ちゃんが女の子らしいに育って欲しいという願いも込めて、ピンクの焼飯を作ってはったんやないかな。背が高たこぅてボーイッシュやさかいに田舎ではきっと目立ったやろ。いじめられとったんと違うかな」
初子が遠い目をした。
「母親てありがたいね」
こいしが瞳を潤ませた。
「肝心の味付けやけどな、梅昆布茶を使うてはったんやないかと思う。初子ちゃんが酸っぱいて感じて、後口がさっぱりしてたて言うてたやろ。それでピンと来たんや。これやったら色も同じピンク系やしな」
流が缶に入った梅昆布茶を見せると、初子が大きくうなずいた。
「ご飯はどんなんでもええと思う。材料一式揃えといた。レシピもちゃんと書いといたさかい、この通りにしたら作れる。あんじょう作って食べさせたげ」流が紙袋を初子に手渡した。
「ありがとうございます」
受け取って初子が立ち上がった。
「ゆっくりして行きいよ。よかったら晩ご飯も一緒にどない?」こいしが慌てて立ち上がった。
「ごめん。今日も仕事があるから帰らなきゃ。その前に叔父のお墓参りだけは行っておこうと思って」
初子が帰り支度を始める。
「旨いもん作って待ってるさかいに、いつでもおいでや」流が言った。
「ありがとうございます。わたしうっかりして、この前の食事代をお支払いしてなかったの。今日の探偵料と合わせて、お幾らになるかしら」初子がバッグから赤いエナメルのパースを取り出した。
「うちは探偵料をお客さんに決めてもろてるんよ。気持ちに見合うた分、ここに振り込んでくれるかな」
こいしがメモ用紙を渡した。
「わかった。気持ちをいっぱい込めるわ」
折り畳んで、初子がパースに仕舞った。
初子が店の外に出ると、ひと声鳴いてひるねが足元に駆け寄って来た。
「ひるねちゃん。ありがとね。また来るから」抱き上げて初子が何度もひるねを撫でる。
「上等のコートが汚れるがな」
流がひるねの腹を突つついた。
「お世話になりました」
ひるねを下ろして初子が腰を折った。
「タクシー呼んだらよかったかなぁ」
正面通を見渡して、こいしが背伸びをした。
「烏丸通まで出ればあるでしょう」
初子が西を向いた。
「お元気で」
流の言葉に会釈して、初子が大股で歩き始めた。
「さすがモデルさんや。颯さっ爽そうと歩くんやな」流が目を細めた。
「初ちゃん」
こいしが大きな声を上げると、立ち止まって初子が振り返った。
「幸せになりや」
こいしが手をメガホンにした。
「ありがとう」
初子が大声で叫んで、何度も手を振りながら西に向かって歩いて行った。
姿が見えなくなったのをたしかめて、流とこいしは店に戻った。
「どうなるやろね」
店に入ってすぐ、こいしが口を開いた。
「何がや」
流がテーブルの上を片付け始めた。
「決まってるやんか。角澤さんとの結婚」
こいしがダスターでテーブルを拭く。
「どっちでもええがな。神さんがあんじょう決めてくれはる」流が空の徳利を振った。
「初ちゃんやったら着物よりウェディングドレスが似合うやろな」こいしが腕組みをした。
「お前はチビやさかい着物やな。文金高島田」カウンターに座って、流が新聞を広げた。
「相手を見つけるのが先やけど」
こいしが流の隣に座った。
「どや。久しぶりに今晩、浩さんとこへ寿司食べに行こか」「ホンマ?」
こいしが目を輝かせた。
「お前もぼちぼち嫁に行かんと、掬子が心配しよる」茶の間に上がり込んだ流が仏壇に向かった。
「そやろか。お父ちゃんひとりにする方が、お母ちゃんは心配なんと違うかなぁ」こいしが流の後を追った。
「こいしだけやのうて、初子ちゃんのことも、ちゃんと見守ったってくれな」流が線香を立てた。