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二十二 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
日期:2024-04-23 10:15  点击:215
  二十二 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
アレグザンダー·ボナパート·カスト氏は、じっとすわりこんでいた。かれの朝食が、手もつけないまま、皿の中でつめたくなっていた。新聞が、ティー·ポットに立てかけてあった。カスト氏が、むさぼるような興味で読んでいたのは、その新聞だった。
  不意に、かれは、立ちあがって、しばらく、歩きまわってから、窓ぎわの椅子に腰をおろした。かれは、両の手に顔をうずめて、おしころしたようなうなり声をあげた。
  かれには、戸の開く音が聞こえなかった。家主のマーベリー夫人が、戸口に立っていた。
  「ねえ、カストさん、もし、あんたが、なにかうまい――おや、どうかしたんですか? 気分がよくないんですか?」カスト氏は、両手から顔をあげた。
  「なんでもないんです。全然、なんでもないんです、マーベリーさん。なんだか――けさは、あまり気持ちがよくないんです」マーベリー夫人は、朝食の盆を、じろじろと見た。
  「なるほど。それで、朝ご飯に、手をつけなかったんですね。また、頭が痛むんですか?」「いや。ほんのすこし、痛むんです……すこし――すこし、気分が悪いんです」「そりゃ、いけませんね、ほんとに。それじゃ、きょうは、出かけないんでしょう?」カスト氏は、いきなり、飛びあがって、「いえ、いえ、出かけなくちゃいけないんです。仕事ですから。大事なんです。とても大事なことなんです」かれの両手は、ぶるぶるふるえていた。かれがひどく興奮しているのを見て、マーベリー夫人は、かれをなだめようとして、「そうね、出かけなくちゃいけないのなら――出かけなくちゃいけないわね。こんどは、遠くへ行くんですか?」「いや、行くところは」――と、かれは、しばらく、ためらっていたが――「チェルテナムです」そういったかれのいい方に、なにか、ひどく妙なところがあったので、マーベリー夫人は、びっくりして、かれを見つめた。
  「チェルテナムって、いいところですね」と、かの女は、話し好きらしい口振りで、いった。「わたしは、ある年、ブリストルから、あそこへ行ったことがあるんですよ。お店が、そりゃもう、とってもきれいでね」「そうでしょうね――ええ」マーベリー夫人は、ぎごちなく、体をかがめた――かがむということが、かの女の体つきに向かなかったのだ――そして、床の上にしわくちゃになって落ちている、新聞をひろいあげた。
  「このごろの新聞ときたら、どの新聞も、こんな人殺しのことばかりで、ほかには、なんにも」と、新聞をテーブルにおく前に、ちらっと見出しを見て、かの女はいった。「ぞっとしますよ、ほんとに。だから、わたしは、新聞なんか読まないんですよ。まるでまた、そこらじゅう、人殺しのジャックみたいですよね」カスト氏の唇くちびる が動いた、が、声は出なかった。
  「ドンカスターといえば――こんどの人殺しは、あそこであるんですってね」と、マーベリー夫人はいった。「それも、あしたですってね! ほんとに、身の毛もよだつじゃありませんか? わたしがドンカスターに住んでいて、名前がDではじまっていたりしたら、わたしは、一番の汽車で逃げ出しますわ。そうしますとも。わたしは、あぶないことはしないことにしているんです。なんかいいましたか、カストさん?」「なんにもいいませんよ、マーベリーさん――なんにも」「競馬もあるんでしょう。きっと、うまい機会だと思ったんでしょうね。何百人のお巡まわりさんだとかって、いってるわね。そのお巡りさんがはりこむんですって、だから――おや、カストさん、顔色が悪いようね。なにか、ちょっとお飲みになった方が、よくはないかしら? ほんとに、きょうは、お出かけにならない方がいいわね」カスト氏は、しゃんと立ちあがって、「どうしても行かなくちゃならないんです、マーベリーさん。わたしは、いつでも、きちんと守ってきたんです――約束は。人がみんな――信用してくれるようでなくちゃいけません! わたしは、一つのことをするといった時は、きっと、それをやりとげるんです。それが、たった一つの道ですよ、その――その――仕事をつづける」「でも、工合ぐあい が悪けりゃね?」「わたしは、病気じゃありませんよ、マーベリーさん。ただ、ちょっとくさくさしているだけなんです――いろいろな、自分一人のことで。よく眠れなかったんです。ほんとに、大丈夫です」かれの口振りが、あまりきっぱりしていたので、マーベリー夫人は、朝食の物を集めて、しぶしぶ部屋を出て行った。
  カスト氏は、寝台の下からスーツ·ケースを引っ張り出して、パジャマや、洗面袋や、替えのカラーや、革かわ のスリッパなどを詰めはじめた。それから、戸棚とだな をあけて、縦十インチ、横七インチほどの、やや平たいボール箱を一ダースほど、棚からスーツ·ケースの中に入れた。
  かれは、テーブルの上の鉄道案内に、ちらっと目をやってから、スーツ·ケースを手にして、部屋を出た。
  スーツ·ケースをホールにおいて、外套と帽子を身につけた。そうしてしまってから、大きなため息をついた。そのため息があまり大きかったので、おりから、わきの部屋から出て来た娘が、心配そうに、かれに目を向けた。
  「どうかしたの、カストさん?」
  「なんでもありませんよ、リリーさん」
  「だって、とても大きなため息をついてたわよ!」カスト氏は、だしぬけにいった。
  「あなたは、予感というものを感じやすいたちですか、リリーさん? 虫の知らせというものを?」「そうね、よくわからないけど、ほんとうは……もちろん、なにからなにまで、悪くいくような気のする日もあれば、なんでもうまくいくような気のする日もあるわね」「そうですね」と、カスト氏はいった。
  かれは、また、ため息をついた。
  「じゃ、さようなら、リリーさん。さようなら。あなたは、ここにいる間、いつでも、ほんとに、わたしに親切にしてくれましたね」「あら、さようならなんて、いわないものよ、まるで、永久に行っちまう人のようだわ」と、リリーは、声をたてて笑った。
  「いや、いや、もちろん、そんなことはありませんよ」「金曜日に会えるじゃないの」と、娘は、声高に笑った。「こんどは、どこへいらっしゃるの? また海岸?」「いや、いや――ええと――チェルテナムです」「あら、それもすてきね。でも、トーケイほど、すてきじゃないわね。あすこは、きっときれいだったでしょう。来年の休みには、あたし、ぜひ、行ってみたいと思ってるの。そりゃそうと、あなたは、きっと、人殺しの――ABC殺人事件のあった、すぐ近くにいらしたわけね。あなたが向こうにいたころに、起こったんじゃなかったかしら?」「ええと――そうです。でも、チャーストンは、六、七マイル離れているんです」「それにしても、きっと、胸がわくわくしたでしょう! だって、あなたは、町で殺人犯人とすれちがったかもしれないんですもの! すぐその男のそばに、いらしたかもしれないんですものね!」「そうです。そうかもしれませんね、もちろん」といってから、カスト氏は、ぞっとするような、ゆがんだ笑いを浮かべたので、リリー·マーベリーは、はっと、それを見とがめた。
  「あら、カストさん、お顔の色がよくないわ」「大丈夫です、大丈夫です。さようなら、ミス·マーベリー」かれは、帽子をあげて、ちょっと挨拶あいさつ をすると、スーツ·ケースを持ちあげて、かなり急いで、玄関から出て行った。
  「おかしな年より」と、やさしく、リリー·マーベリーはいった。「あたしの頭まで、どうかなったみたいだわ」クローム警部は、部下にいった。
  「靴下製造会社のリストをつくって、まわすんだ。それから、すべての代理商のリストもほしい――わかってるだろう、手数料を取って売っている者も、注文を取って歩く者も、みんなだ」「このABC事件のためですね?」「そうだ。エルキュール·ポワロ氏のお考えのひとつさ」警部は、軽蔑けいべつ するような口調でいった。「おそらく、どうということもないだろう、が、どんなつまらないものでも、機会をのがすわけにはいかんからね」「そのとおりです。ポワロ氏は、全盛時代には、かなりいい仕事をやったようですが、いまとなっては、ちょっと老いぼれたように思いますね」「ありゃ、山師だよ」と、クローム警部はいった。「いつも気取っていてな。人によるとだまされるが、わしは、だまされん。さて、それでは、ドンカスターの手配について……」トム·ハーティガンが、リリー·マーベリーにいった。
  「けさ、きみんとこの、老いぼれの退役軍人に会ったよ」「誰? カストさん?」「そう、カストだ。ユーストンでね。いつものとおり、道に迷った雌鶏めんどり みたいな恰好かっこう でさ。ぼくは、奴やっこ さんは、半分キじるしだと思うよ。誰か世話をする人がいり用だな。はじめに、新聞を落としてさ、それから、切符を落としたよ。ぼくが拾ってやったんだけど――まるきり、落としたのに気がつかないんだ。あわてた様子で、礼をいったけど、ぼくだと気がつかなかったろうな」「そりゃ、そうよ」と、リリーはいった。「廊下ですれちがう時に見かけるだけだし、おまけに、しょっちゅうじゃないんですもの」二人は、床をひとまわり踊った。
  「きみは、なかなかきれいに踊るね」と、トムがいった。
  「もっと踊ってよ」と、リリーはいって、くねらせて、ちょっと体を近づけた。
  二人は、またひとまわり踊った。
  「あなた、ユーストンとか、パディントンとかいったわね?」と、出しぬけに、リリーがたずねた。「カストじいさんに会ったのは、どこだっていってるのよ?」「ユーストンさ」「ほんと?」「もちろん、ほんとさ。どうしてだい?」
  「おかしいわ。あの人、パディントンからチェルテナムへ行ったものだと思ってたのに」「きみが、そう思っただけなんだよ。ところが、カストじいさんは、チェルテナムへ行かなかったんだ。あの人は、ドンカスターへ行ったんだ」「チェルテナムよ」「ドンカスターだよ。ぼくは、よく知ってるんだよ、きみ! とにかく、ぼくが切符を拾ってやったんだろう?」「でも、あの人は、チェルテナムへ行くって、あたしにいったんですもの、確かに、そういってよ」「ああ、きみは、間違って聞いたんだよ。あの人は、確かに、ドンカスターへ行ったんだよ。運がいい人って、あるもんだね。ぼくは、レジャー競馬で、ファイヤフライに、ちょっと賭けてるんで、とても、あいつの走るのが見たいんだがな」「カストさんが競馬に行ったとは思えないわ。あの人は、そんなような人じゃないもの。ねえ、トム、あの人、殺されなければいいけどね。ドンカスターでしょう、ABC殺人事件があるのは」「カストは、大丈夫だよ。あの人の名前は、Dではじまっていないもの」「この前にも、殺されていたかもしれなかったのよ。あの人がチャーストンの近くのトーケイに行っていた時、この前の殺人事件があったのよ」「あの人が? そりゃ、ちょっと偶然の一致だね?」かれは、声高く笑った。
  「まさか、その前には、ベクスヒルに行ってたんじゃないだろう?」リリーは、眉を寄せて、「あの人、どこかへ行ってたわ……そう、思い出したわ、どこかへ行ってたわ……それというのが、海水着を忘れて行ったんですもの。母かあ さんが繕ってあげたのよ、あの人のために。それで、母さんがいったわ。『ほらね――カストさんたら、きのうは、海水着も持たずに、出かけて行ってしまったよ』って。それで、あたし、いったのよ。『あら、そんな古い海水着なんかどうでもいいことよ――とてもおそろしい殺人事件があったのよ』っていったの。『若い娘さんが、ベクスヒルでしめ殺されたのよ』って」「そうだ。海水着がいり用だったというのなら、あの人は、きっと、海岸に行ったにちがいないんだ。ねえ、リリー」――と、かれの顔に、おもしろそうに、しわが寄った。「きみの、老いぼれの退役軍人が殺人犯だというのは、どうだい?」「あの哀れなカストさんが? あの人には、蠅はえ だって殺せやしないわ」と、リリーが声高に笑った。
  二人は、しあわせそうに踊っていた――その心の中では、いっしょにいる楽しさのほかには、なにもなかった。
  その意識しない心の中では、なにかが動いていたのだが……

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06/27 03:23