加藤道夫は不意に死んでしまった。
全く、不意にというより他はない。大阪の宿屋で、最初の報せをきいた時、信じ兼ねた。大喀血かと思い、すぐ、事故にでも遭ったかと思い直した。最近は、体重も一貫目近くふえたと自慢していたし、伊豆での翻訳の仕事も、思いのほかはかどったらしく、元気だった。自殺とは、東京への電話で分ったが、その死の事情は、尚更に信じ兼ねた……
死の一と月ほど前に書いた未発表の短い文章のなかで、彼は生きることの苦しさを語っている。
——われわれは社会という不安定な限界状況に拘束されなければ生きてゆけない、そういう悲劇的な歯車とかみ合いながら、しかも本質的な仕事をしてゆくためには、作家たるものは、心身ともによほど健康でなければならない、という意味のことを書き、「書かなければならぬといふ強迫観念に取り憑《つ》かれてゐる」彼自身の、健康の十分でないことを歎じている。死後にこういう文章に接してみると、彼のその「一種のノイローゼの状態」について、思い当る節もなくはない。しかし、彼は生活の上でも文学の上でも、そういう苦しみを、決して安っぽく売り物にしたことはなかった。それだけ、彼の死は、ぼくらにとって、唐突であり、衝撃的であった。
この短い一文中に窺われる彼の心境から推すと、最近の彼は、作家として、一つの転回点にさしかかっていたのではないかという気がする。
実際、これまでに彼の書いた戯曲の主人公達は、皆、社会生活の「悲劇的な歯車」とかみ合いつつ生きることを、抛棄する人間達であった。「なよたけ」の文麻呂も、「挿話」の将軍も、「思ひ出を売る男」の男も、「襤褸《ぼろ》と宝石」の民夫とジュリアも、皆、現実生活の覊絆《きはん》を脱することによって、より高次の世界に——彼の言葉をかりれば「彼岸の秩序」に生きようとする人間達だった。
最近の彼は、それらの作品をつらぬく、歓喜の逃走ともいうべき主旋律の呪縛から、かなり意志的に、脱け出そうとしていたのではあるまいか。
それならそれで、一度思い切って、いやな奴や、みにくい争いや、滑稽な制度や——要するに彼自身のかみ合っている歯車の数々を、書き潰してしまったらよかったのではないか。——しかしまた、彼の胸裡の「劇場」は、そんなグロテスクな作品を、レパートリーとして採用することを拒んでいたのに違いない。
加藤ほど、劇場を、浄らかな場所として考えていたものを、僕は他に知らない。劇場は、彼にとって、すべて、善いもの、美しいもの、純粋なもので満たさるべき「小宇宙」だった。
戦後に書いたエッセイ「演劇の故郷」のなかで、彼は、現代の劇場の堕落を指摘し、それが本来の姿——祭壇にかえるべきことを強調した。演劇の本質的機能を活溌にし、高揚することによって、劇場を今日の喧騒と衰弱とから救い生かそうとする彼の態度は、戦争中、「なよたけ」を書いた頃から、死に至るまで一貫していたといってよい。
彼は、一面、学者肌でもあったが、しんからの芝居好きであった。この「小宇宙」の夢を現前させるためには、書くだけでは十分でなかったのである。
劇作家としての彼は、ジロドゥーに最も深く、次いでシェイクスピアとクローデルに、傾倒していた(サルトルやカミュの戯曲もいくつか訳しはしたが、そんなものを本気で学んだ形跡はない)。彼は——ふたたび彼の言葉に従えば、「息切れのしている」近代写実劇の文体に対して、独特の声調と色彩とをもつ詩的文体をつくり出した。しかし、彼に乗りかかっていたのは、ジロドゥーばかりではなかった。フランス現代劇の小宇宙を完成した指導者コポーや俳優ジュヴェが、彼の体内に同居していたのである。恐らく、死に至るまで。
病気は、彼の書くことを妨げる前に、彼の、芝居の実際の仕事にたずさわることを妨げたのだ。彼の戯曲のトガキの、演出や演技に対する指示の精密なこと、時には、演出者や俳優に対する倫理的要求さえも含んでいることは、決して偶然ではない。
戦争中、一緒に「新演劇研究会」という集まりをつくった。一年に一回、六カ月稽古をして、二日位、発表会をやった。学生劇団には有り勝ちのことで、戯曲の創作、翻訳から、演出、演技、装置、ポスター描きから切符の売り捌《さば》きまで、二人は大抵何でもやった。昭和十六・七年のことだ。
最初の発表会に、彼はポール・グリーンの「ろくでなし」を訳し、処女作「十一月の夜」を演出し出演した上、僕の演出したジュール・ロマンの芝居にも俳優として出演した。「ろくでなし」の女主人公を演じたのは、後の彼の夫人、加藤治子だった。
翌年は阪中正夫作「田舎道」を演出し、出演した。
まだ誰も、——恐らく彼自身すらも——彼が劇作家になろうとは思っていなかった。
その年の秋、やせた僕は軍隊に入り、がっちりして見える彼は残った。予想とは正反対だった。
やがて友人の誰彼も、徴用や何かで、少なくなって行った。ひとりになった彼は、「なよたけ」を書き、南方に発った。戦争が終り、彼はマラリアに冒されて帰ってきた。そして胸を病んだ……
近頃の彼の一ばん愉しそうだったのは、一昨年の夏、文学座アトリエの関西公演に、俳優として出演した時だった。出し物はサルトルの「恭しき娼婦」、女主人公の若い娼婦リッジーには夫人が扮し、彼は老黒人の役、演出はぼくだった。気のおけない稽古で、稽古中にも、「アメリカの南部の黒んぼってのはねえ」と講義を始めたり、芝居の途中でいきなり「一寸待った」と声をかけ、舞台から下りて来て、「どうも今日は感情が高揚しないねえ。少し、休もうや」などと、全然演出家を無視して、皆を笑わせたりした。演出に対しても、忌憚のない批評をした。如何にも愉快そうだった。その稽古場の彼は、演技をする作家であり、演出をする俳優だった。
芝居が始まると、大へんな興奮で、同じセリフを何遍も繰返しては、相手役の夫人やプロンプターを戸惑いさせた。しかしその黒人の演技は、絶品だった。
三日目位になると、「どうもあの垂幕のかげにかくれている間が、退屈だね。いきなりこう、ジャズか何か歌いながら、飛び出して行きたくなるねえ。ま、何だな、こんなこと考えるってのは、やっぱり、作品がつまらないんだね。やっぱり、ジロドゥーだな」と、幕間に作家論をはじめたりするのだった。そこには、彼の理想とする演劇運動の、小さな原型があった……
しかし、健康は、彼をいつもこういう状態におくことを許さなかった。書斎の中で、「小宇宙」の重みが、ペンにかかった。それにも拘らず、彼は、あるいは彼の夢は、演劇の実際行動へ誘われがちであった……
彼の潰稿の中には、堤中納言物語や、切支丹の物語に取材した未完の作品がある。作者の姿勢は苦しげであり、その夢は、美しいなりに、「なよたけ」を書いた頃よりずっと孤独な、頑《かたくな》な相貌をあらわしている。それは、本流への通路を断たれた小川の、おのずから形づくった湖のように見える……
すべてこんなことを、ぼくは怱忙の内に認《したた》めている。
十六年の長い交際のうちには、激しい衝突もし、尽きない議論をくりかえしたこともあった。お互いの生き方も変って来てはいたが、ぼくにとって、彼ほど、温かい慰め手であり、純粋な優しい励まし手であった友人はほかにない。かけがえのない友人だった。
僕の方はまた、意地のわるい、皮肉な友人として、彼の死の手伝いばかりして来たようなものだが、一緒にやろうと話し合っていたあたらしい劇場のこと、そこで上演する筈のたくさんの戯曲、その上演のために必要な稽古の方法や劇団生活など、いろいろなことが、一遍に、しかもこんな形でだめになってしまったことを思うと、どうにもたまらない気がする。
しかしまた、彼は、青年達を愛していた。文学座の研究生達や、大学の演劇部の学生たちに、彼の信念を、理想を説いて、倦《う》むことがなかった。彼ののぞんだきよらかな「小宇宙」は、きよらかな心の青年達によってしか実現されない筈であった。彼は、青年達の裡に、自分の夢を託し、それを育てようとしていたのである。その意味では、彼は、明日の演劇のもっともすぐれた鼓吹者であった。
あんなに芝居を愛し、友人達を愛しながら、誰に何も言わず、ひっそりと死んで行った加藤道夫の真剣な志は、彼を尊敬し、慕っていた青年達の内に、うけつがれているに違いない。彼の夢みた「小宇宙」は、青年達の数と同じ数だけの「小宇宙」になって、彼等の胸裡に目ざめつつあるに違いないのだ。
——一九五四年二月 藝術新潮——