加藤道夫にはじめて会ったのは、大学の予科二年の時である。
加藤は法科、私は文科で、教室では一度も顔を合わせたことがなかった。加藤は「素描」という同人雑誌に加わっており、前衛映画風のシナリオや小説などを書いていたが、その雑誌の仲間が私のクラスにもいたので、なんとなく噂はきいていた。
会ったのは、当時、新劇の常打《じよううち》小屋のようになっていた田村町の飛行館の廊下で、芝居は、結成後間もない文学座の「蒼海亭(マリウス)」であった。
はじめて見る金ボタンの制服の加藤道夫は、人なつこい、精力的な仔熊のような顔をしていた。
終演後、新橋の喫茶店で話をしたが、何の話であったか覚えていない。ただ加藤が、ユージン・オニールの作品の名をあれこれとあげて、「君、読みましたか?」と、ちょっとはにかむような微笑をうかべながら、しきりにきくので、閉口したのを覚えている。私はオニールを読んではいたが、あまり好きではなかったのである。
それ以来、加藤と私とは意気投合して、いっしょに映画を見たり、後年そろってその劇団に入ることになるなどとは夢にも思わずに、文学座の芝居を見たり、文学や芝居について、はてしのない長い議論をくりかえしたりするようになった。
加藤の家は世田谷の若林にあった。その西洋風の建物は、北原白秋の旧居で、自分の部屋がたまたま白秋の書斎にあたっている偶然を、加藤はおもしろがっていた。彼の代表作とされている「なよたけ」は、白秋の世田谷時代の作品と同じ部屋で書かれたことになる。
ある夏の夜、加藤の部屋で遅くまで話しこんで、泊ることになり、床に入っても、まだ話が尽きず、明け方になって、ぼんやりしてきた頭で、とりとめのないことをしゃべっていると、突然、牛が啼き出した。近くの農家の牛だという。
「あいつも、腹がへってるんだろうな」とまじめに加藤がいい、私たちはとたんに噴き出して、笑いがとまらなくなった。実はこちらも二人とも、空腹に耐えかねていたからである。牛は三十分啼きつづけた。その間じゅう、私たちは、「白秋もあれを聞いたことがあるかも知れないな」とか、「牛は話相手がないからたいへんだ」とか、「自分で朝のミルクを飲むというわけにもいかないだろうしなあ」とか、たわいのないことを言っては、涙の出るほど笑い合った。
こういう時の加藤は、じつに明るく、陽気で、茶目で、文字通り、天真爛漫であった。「なよたけ」は、ほとんど天上的といってよい心情の持主であった加藤にして、はじめて書き得た作品であったが、そのおなじ無垢《むく》の心が、彼を死においやったと言えなくもない。
まもなく加藤と私とは、「新演劇研究会」という学生劇団をつくったが、加藤には人をあつめる独特の才能、というより、人徳があり、この劇団はほとんど加藤が一人でつくったようなものであった。
その、あつまって来た仲間の一人に、原田義人がいた。加藤とは五中の同期生で、当時東大の独文にいた原田は、文藝部員という格で、劇団に参加した。
築地の国民新劇場の廊下で加藤に紹介されたのだが、上体を深く曲げるおそろしく行儀のいいおじぎと、青白い顔と、ものすごく長い髪とに、びっくりした。長髪は、当時としても流行おくれの文学青年風俗で、私はちょっと気おくれしたが、話しているうちに、彼の敏感で快活な話しぶりや、誠実なものの考え方に、すっかり感心してしまった。
「新演劇研究会」の第一回公演は、昭和十六年十一月。国民新劇場を借りて一幕物の三本立てで上演したが、その内の一本は、ポール・グリーン作・加藤道夫訳・原田義人演出の「ろくでなし」であった。翌月、太平洋戦争がはじまり、アメリカの芝居は上演禁止になったので、この「ろくでなし」は東京における戦前最後のアメリカ劇上演であったろうと思っている。
翌十七年の夏の第二回公演には、坂中正夫作・加藤道夫演出・主演の「田舎道」と、モリエール作・鈴木力衞訳「亭主学校」とを上演した。
この「亭主学校」に、原田は、公証人の役で出ることになった。
「私は正規の公証人です」という、たった一つのせりふが、彼はすっかり気に入って、上機嫌だった。表面へ出たがらず、集団の中にいても、いつも縁の下の力持ち的な仕事をひきうけるのが、性に合っているらしかった。舵手《だしゆ》、検査役、そういう役どころになると、原田の緻密《ちみつ》な、誠実な考え方や冷静な行動が、ちょっと真似手のないみごとさで発揮された。
「亭主学校」の初日の晩、主役のスガナレルを演じていた私はすっかりアガってしまった。最後の幕でせりふを言いながら、公証人から鵞《が》ペンを受けとろうとはしたものの、手がふるえて、どうにもペンがつかまえられない。すると、この初舞台の公証人は、「落ちつけ!」と言わぬばかりの眼で私をじっとみつめ、ぺンを私の手ににぎらせ、インクをひたしやすいように、グッとインク壺を私の方へ傾けてくれた。
加藤の劇作家としての仕事、原田のドイツ文学者としての仕事、共に今はふれる余白はない。
ジングルベルの鳴りひびく十二月二十二日の夜、加藤が自ら命を絶った時、私はラジオの録音で大阪に行っていた。暑いひっそりとした八月二日の朝、原田が年にしては早い不治の病に倒れた時には、講演のため足利に行っていて死目に会えなかった。不幸な偶然というべきか。
——一九六五年九月 オール読物——