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猫を抱いて長電話47
日期:2020-08-11 10:40  点击:284
 ネコ可愛がりの自己弁護
 
 これまで猫には興味がなかった。いや、どちらかというと、嫌いだった。それは認める。だいたい、目つきが陰険だ。態度がこそこそしている。寝てばっかりいて、何の役にも立たない。
 それに猫を飼っている人は、おしなべて飼い猫の話をする時に甘い声を出すような気もしていた。「うちのネコちゃんたらね」「あら、おたくのネコちゃんもそうなの?」……という具合である。そのべたべたした感じもいやだし、まして血統書付きの立派な猫をソファーにはべらせ、「エリザベート?」と呼びかけたりするなど、想像するだにおぞましかった。
 だから、飼うなら犬……と決めていた。しかも野性的な日本犬。これまで犬を飼った経験は二度あるが、犬との生活で得たものは計りしれない。犬とはアウトドアライフを共有できる。フィラリアで死んだ柴犬が、死ぬ直前、足をひきずりながらも私と散歩に出かけることを望み、坂の上から沈んでいく太陽をじっと眺めていた様子を思い出すと、今でも涙が出て来る。
 しかし、しかし、である。その私が猫に夢中になってしまったのだから、人間なんていい加減なものだ。
 ことの始まりはこの間の夏の夜。生ゴミを外に出しに行ったツレアイが、一匹の薄汚い三毛猫を連れて戻って来た。ゴミを出していたらすり寄って来た、と言う。
 猫を見て私はギャッと叫んだ。よりによってなんで、こんな皮膚病の猫を連れて来たのよ、と文句を言った。その三毛猫は、スペインの港町で見た皮膚病の猫を私に思い出させた。毛はぼさぼさ。痩《や》せていて、おまけにダミ声で「ギャー」と鳴くあたりが、スペインの猫と似ていたのだ。
 ずんずん部屋の奥に歩いて行った猫を追いかけ、明るい電気の下で眺めてみて、二度びっくり。彼女(メスだった)は、皮膚病ではなく、身体中の毛を何者かによってきれいにカットされていただけだったのである。
 毛を五分刈りにされている他は、いたって元気そうな可愛い猫だった。声がダミ声なのも生まれつきらしい。
「どうする?」とツレアイが聞いた。「一泊だけ泊めてやろうか」
 どうしてあの時、私がそれに同意したのか、いまだにわからない。ただ、自分たちの生活の場にすぐになじんでしまった猫を見ていて、心暖かい気持ちになったことだけは事実だった。
 私たちは、猫に「ゴブ」という名前を付け(五分刈りにされていたから)、次の日も、また次の日も家においてやった。
 ゴブは活発で人間に馴《な》れていた。多分、遊んでいて迷ってしまった迷い猫だったのだろう。食欲|旺盛《おうせい》、オシッコもウンチも指定した猫用トイレできちんと済ませる。外出から帰ると玄関まで走って来る。しだいに私は、そのよく動く手を持つ小さな生き物が好きになっていた。
 近くにある動物病院に連れて行って健康診断をしてもらうと、「健康そのもの」と太鼓判を押された。診断料六千円を取られても、別段、腹も立たなかった。
 ついに私は「飼おう!」と決心した。しっぽがひん曲がっているし、どこにでもいる�その他大勢�の駄猫だし、おまけに刈られた毛はなかなか生えそろわず、エサ代はかかり、朝は早くから起こされ、飲んでいる時にツマミのフグのみりん干しを横取りされ、手足に引っ掻《か》き傷が絶えず、ワープロ原稿を印刷する時になると、プリンターの上に乗って来ていたずらされ、壁紙は生傷《なまきず》だらけ、思いたった旅行もままならず……という迷惑は数え上げればキリがないが、それでもゴブといると楽しい。最高なのである。
 かくてかつての猫嫌いは鼻の下を伸ばしてこんなエッセイを書いているわけだが、これ以上書くと、ソファーの上の�立派猫�を「エリザベート」と呼ぶデブの金持ちオバサンと変わりなくなりそうで怖い。だからゴブに関するエッセイは今回限りでやめておきます。

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05/08 08:13