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坊っちゃん(01)

时间: 2017-02-02    进入日语论坛
核心提示:(一) 親譲おやゆずりの無鉄砲むてっぽうで子供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほ
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(一)

 親譲おやゆずりの無鉄砲むてっぽうで子供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほどこしかした事がある。なぜそんな無闇むやみをしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談じょうだんに、いくら威張いばっても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。とはやしたからである。小使こづかいに負ぶさって帰って来た時、おやじが大きなをして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かすやつがあるかとったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。
 親類のものから西洋製のナイフをもらって奇麗きれいを日にかざして、友達ともだちに見せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないと云った。切れぬ事があるか、何でも切ってみせると受け合った。そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだと右の手の親指のこうをはすに切りんだ。さいわいナイフが小さいのと、親指の骨がかたかったので、今だに親指は手に付いている。しかし創痕きずあとは死ぬまで消えぬ。
 庭を東へ二十歩に行きつくすと、南上がりにいささかばかりの菜園があって、真中まんなかくりの木が一本立っている。これは命より大事な栗だ。実の熟する時分は起き抜けに背戸せどを出て落ちた奴を拾ってきて、学校で食う。菜園の西側が山城屋やましろやという質屋の庭続きで、この質屋に勘太郎かんたろうという十三四のせがれが居た。勘太郎は無論弱虫である。弱虫のくせに四つ目垣を乗りこえて、栗をぬすみにくる。ある日の夕方折戸おりどかげかくれて、とうとう勘太郎をつらまえてやった。その時勘太郎はみちを失って、一生懸命いっしょうけんめいに飛びかかってきた。むこうは二つばかり年上である。弱虫だが力は強い。はちの開いた頭を、こっちの胸へててぐいぐいした拍子ひょうしに、勘太郎の頭がすべって、おれのあわせそでの中にはいった。邪魔じゃまになって手が使えぬから、無暗に手をったら、袖の中にある勘太郎の頭が、右左へぐらぐらなびいた。しまいに苦しがって袖の中から、おれの二のうでへ食い付いた。痛かったから勘太郎を垣根へ押しつけておいて、足搦あしがらをかけて向うへたおしてやった。山城屋の地面は菜園より六尺がた低い。勘太郎は四つ目垣を半分くずして、自分の領分へ真逆様まっさかさまに落ちて、ぐうと云った。勘太郎が落ちるときに、おれの袷の片袖がもげて、急に手が自由になった。その晩母が山城屋にびに行ったついでに袷の片袖も取り返して来た。
 この外いたずらは大分やった。大工の兼公かねこう肴屋さかなやかくをつれて、茂作もさく人参畠にんじんばたけをあらした事がある。人参の芽が出揃でそろわぬところわらが一面にいてあったから、その上で三人が半日相撲すもうをとりつづけに取ったら、人参がみんなみつぶされてしまった。古川ふるかわの持っている田圃たんぼ井戸いどめてしりを持ち込まれた事もある。太い孟宗もうそうの節を抜いて、深く埋めた中から水がき出て、そこいらのいねにみずがかかる仕掛しかけであった。その時分はどんな仕掛か知らぬから、石やぼうちぎれをぎゅうぎゅう井戸の中へし込んで、水が出なくなったのを見届けて、うちへ帰って飯を食っていたら、古川が真赤まっかになって怒鳴どなり込んで来た。たしか罰金ばっきんを出して済んだようである。
 おやじはちっともおれを可愛かわいがってくれなかった。母は兄ばかり贔屓ひいきにしていた。この兄はやに色が白くって、芝居しばい真似まねをして女形おんながたになるのが好きだった。おれを見る度にこいつはどうせろくなものにはならないと、おやじが云った。乱暴で乱暴で行く先が案じられると母が云った。なるほど碌なものにはならない。ご覧の通りの始末である。行く先が案じられたのも無理はない。ただ懲役ちょうえきに行かないで生きているばかりである。
 母が病気で死ぬ二三日にさんち前台所で宙返りをしてへっついの角で肋骨あばらぼねって大いに痛かった。母が大層おこって、お前のようなものの顔は見たくないと云うから、親類へとまりに行っていた。するととうとう死んだと云う報知しらせが来た。そう早く死ぬとは思わなかった。そんな大病なら、もう少し大人おとなしくすればよかったと思って帰って来た。そうしたら例の兄がおれを親不孝だ、おれのために、おっかさんが早く死んだんだと云った。口惜くやしかったから、兄の横っ面を張って大変しかられた。
 母が死んでからは、おやじと兄と三人でくらしていた。おやじは何にもせぬ男で、人の顔さえ見れば貴様は駄目だめだ駄目だと口癖のように云っていた。何が駄目なんだか今に分らない。みょうなおやじがあったもんだ。兄は実業家になるとか云ってしきりに英語を勉強していた。元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。十日に一遍いっぺんぐらいの割で喧嘩けんかをしていた。ある時将棋しょうぎをさしたら卑怯ひきょう待駒まちごまをして、人が困るとうれしそうに冷やかした。あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間みけんたたきつけてやった。眉間が割れて少々血が出た。兄がおやじに言付いつけた。おやじがおれを勘当かんどうすると言い出した。
 その時はもう仕方がないと観念して先方の云う通り勘当されるつもりでいたら、十年来召し使っているきよという下女が、泣きながらおやじにあやまって、ようやくおやじのいかりが解けた。それにもかかわらずあまりおやじをこわいとは思わなかった。かえってこの清と云う下女に気の毒であった。この下女はもと由緒ゆいしょのあるものだったそうだが、瓦解がかいのときに零落れいらくして、つい奉公ほうこうまでするようになったのだと聞いている。だからばあさんである。この婆さんがどういう因縁いんえんか、おれを非常に可愛がってくれた。不思議なものである。母も死ぬ三日前に愛想あいそをつかした――おやじも年中持て余している――町内では乱暴者の悪太郎と爪弾つまはじきをする――このおれを無暗に珍重ちんちょうしてくれた。おれは到底とうてい人に好かれるたちでないとあきらめていたから、他人から木のはしのように取りあつかわれるのは何とも思わない、かえってこの清のようにちやほやしてくれるのを不審ふしんに考えた。清は時々台所で人の居ない時に「あなたはすぐでよいご気性だ」とめる事が時々あった。しかしおれには清の云う意味が分からなかった。い気性なら清以外のものも、もう少し善くしてくれるだろうと思った。清がこんな事を云う度におれはお世辞はきらいだと答えるのが常であった。すると婆さんはそれだから好いご気性ですと云っては、嬉しそうにおれの顔をながめている。自分の力でおれを製造してほこってるように見える。少々気味がわるかった。
 母が死んでから清はいよいよおれを可愛がった。時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思った。つまらない、せばいいのにと思った。気の毒だと思った。それでも清は可愛がる。折々は自分の小遣こづかいで金鍔きんつば紅梅焼こうばいやきを買ってくれる。寒い夜などはひそかに蕎麦粉そばこを仕入れておいて、いつの間にかている枕元まくらもとへ蕎麦湯を持って来てくれる。時には鍋焼饂飩なべやきうどんさえ買ってくれた。ただ食い物ばかりではない。靴足袋くつたびももらった。鉛筆えんぴつも貰った、帳面も貰った。これはずっと後の事であるが金を三円ばかり貸してくれた事さえある。何も貸せと云った訳ではない。向うで部屋へ持って来てお小遣いがなくてお困りでしょう、お使いなさいと云ってくれたんだ。おれは無論入らないと云ったが、是非使えと云うから、借りておいた。実は大変嬉しかった。その三円を蝦蟇口がまぐちへ入れて、ふところへ入れたなり便所へ行ったら、すぽりと後架こうかの中へおとしてしまった。仕方がないから、のそのそ出てきて実はこれこれだと清に話したところが、清は早速竹の棒をさがして来て、取って上げますと云った。しばらくすると井戸端いどばたでざあざあ音がするから、出てみたら竹の先へ蝦蟇口のひもを引きけたのを水で洗っていた。それから口をあけて壱円札いちえんさつを改めたら茶色になって模様が消えかかっていた。清は火鉢でかわかして、これでいいでしょうと出した。ちょっとかいでみてくさいやと云ったら、それじゃお出しなさい、取りえて来て上げますからと、どこでどう胡魔化ごまかしたか札の代りに銀貨を三円持って来た。この三円は何に使ったか忘れてしまった。今に返すよと云ったぎり、返さない。今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。
 清が物をくれる時には必ずおやじも兄も居ない時に限る。おれは何が嫌いだと云って人に隠れて自分だけ得をするほど嫌いな事はない。兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隠して清から菓子かしや色鉛筆を貰いたくはない。なぜ、おれ一人にくれて、兄さんにはらないのかと清に聞く事がある。すると清はすましたものでお兄様あにいさまはお父様とうさまが買ってお上げなさるから構いませんと云う。これは不公平である。おやじは頑固がんこだけれども、そんな依怙贔負えこひいきはせぬ男だ。しかし清の眼から見るとそう見えるのだろう。全く愛におぼれていたにちがいない。元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。単にこればかりではない。贔負目は恐ろしいものだ。清はおれをもって将来立身出世して立派なものになると思い込んでいた。その癖勉強をする兄は色ばかり白くって、とても役には立たないと一人できめてしまった。こんな婆さんにってはかなわない。自分の好きなものは必ずえらい人物になって、嫌いなひとはきっと落ち振れるものと信じている。おれはその時から別段何になると云う了見りょうけんもなかった。しかし清がなるなると云うものだから、やっぱり何かに成れるんだろうと思っていた。今から考えると馬鹿馬鹿ばかばかしい。ある時などは清にどんなものになるだろうと聞いてみた事がある。ところが清にも別段の考えもなかったようだ。ただ手車てぐるまへ乗って、立派な玄関げんかんのある家をこしらえるに相違そういないと云った。
 それから清はおれがうちでも持って独立したら、一所いっしょになる気でいた。どうか置いて下さいと何遍もり返して頼んだ。おれも何だかうちが持てるような気がして、うん置いてやると返事だけはしておいた。ところがこの女はなかなか想像の強い女で、あなたはどこがお好き、麹町こうじまちですか麻布あざぶですか、お庭へぶらんこをおこしらえ遊ばせ、西洋間は一つでたくさんですなどと勝手な計画を独りでならべていた。その時は家なんか欲しくも何ともなかった。西洋館も日本建にほんだても全く不用であったから、そんなものは欲しくないと、いつでも清に答えた。すると、あなたは欲がすくなくって、心が奇麗だと云ってまた賞めた。清は何と云っても賞めてくれる。
 母が死んでから五六年の間はこの状態で暮していた。おやじには叱られる。兄とは喧嘩をする。清には菓子を貰う、時々賞められる。別に望みもない。これでたくさんだと思っていた。ほかの小供も一概いちがいにこんなものだろうと思っていた。ただ清が何かにつけて、あなたはお可哀想かわいそうだ、不仕合ふしあわせだと無暗に云うものだから、それじゃ可哀想で不仕合せなんだろうと思った。その外に苦になる事は少しもなかった。ただおやじが小遣いをくれないには閉口した。
 母が死んでから六年目の正月におやじも卒中で亡くなった。その年の四月におれはある私立の中学校を卒業する。六月に兄は商業学校を卒業した。兄は何とか会社の九州の支店に口があってかなければならん。おれは東京でまだ学問をしなければならない。兄は家を売って財産を片付けて任地へ出立しゅったつすると云い出した。おれはどうでもするがよかろうと返事をした。どうせ兄の厄介やっかいになる気はない。世話をしてくれるにしたところで、喧嘩をするから、向うでも何とか云い出すにきまっている。なまじい保護を受ければこそ、こんな兄に頭を下げなければならない。牛乳配達をしても食ってられると覚悟かくごをした。兄はそれから道具屋を呼んで来て、先祖代々の瓦落多がらくた二束三文にそくさんもんに売った。家屋敷いえやしきはある人の周旋しゅうせんである金満家に譲った。この方は大分金になったようだが、くわしい事は一向知らぬ。おれは一ヶ月以前から、しばらく前途の方向のつくまで神田の小川町おがわまちへ下宿していた。清は十何年居たうちが人手にわたるのを大いに残念がったが、自分のものでないから、仕様がなかった。あなたがもう少し年をとっていらっしゃれば、ここがご相続が出来ますものをとしきりに口説いていた。もう少し年をとって相続が出来るものなら、今でも相続が出来るはずだ。婆さんはなんにも知らないから年さえ取れば兄の家がもらえると信じている。
 兄とおれはかように分れたが、困ったのは清の行く先である。兄は無論連れて行ける身分でなし、清も兄の尻にくっ付いて九州くんだりまで出掛ける気は毛頭なし、と云ってこの時のおれは四畳半よじょうはんの安下宿にこもって、それすらもいざとなれば直ちに引きはらわねばならぬ始末だ。どうする事も出来ん。清に聞いてみた。どこかへ奉公でもする気かねと云ったらあなたがおうちを持って、おくさまをお貰いになるまでは、仕方がないから、おいの厄介になりましょうとようやく決心した返事をした。この甥は裁判所の書記でまず今日には差支さしつかえなく暮していたから、今までも清に来るなら来いと二三度勧めたのだが、清はたとい下女奉公はしても年来住みれたうちの方がいいと云って応じなかった。しかし今の場合知らぬ屋敷へ奉公易ほうこうがえをして入らぬ気兼きがねを仕直すより、甥の厄介になる方がましだと思ったのだろう。それにしても早くうちを持ての、さいを貰えの、来て世話をするのと云う。親身しんみの甥よりも他人のおれの方が好きなのだろう。
 九州へ立つ二日前兄が下宿へ来て金を六百円出してこれを資本にして商買しょうばいをするなり、学資にして勉強をするなり、どうでも随意ずいいに使うがいい、その代りあとは構わないと云った。兄にしては感心なやり方だ、何の六百円ぐらい貰わんでも困りはせんと思ったが、例に似ぬ淡泊たんばくな処置が気に入ったから、礼を云って貰っておいた。兄はそれから五十円出してこれをついでに清に渡してくれと云ったから、異議なく引き受けた。二日立って新橋の停車場ていしゃばで分れたぎり兄にはその後一遍も逢わない。
 おれは六百円の使用法について寝ながら考えた。商買をしたって面倒めんどくさくってうまく出来るものじゃなし、ことに六百円の金で商買らしい商買がやれる訳でもなかろう。よしやれるとしても、今のようじゃ人の前へ出て教育を受けたと威張れないからつまり損になるばかりだ。資本などはどうでもいいから、これを学資にして勉強してやろう。六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば三年間は勉強が出来る。三年間一生懸命にやれば何か出来る。それからどこの学校へはいろうと考えたが、学問は生来しょうらいどれもこれも好きでない。ことに語学とか文学とか云うものは真平まっぴらめんだ。新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通りかかったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲からおこった失策だ。
 三年間まあ人並ひとなみに勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定かんじょうする方が便利であった。しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった。自分でも可笑おかしいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。
 卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師が入る。月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。おれは三年間学問はしたが実を云うと教師になる気も、田舎いなかへ行く考えも何もなかった。もっとも教師以外に何をしようと云うあてもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと即席そくせきに返事をした。これも親譲りの無鉄砲がたたったのである。
 引き受けた以上は赴任ふにんせねばならぬ。この三年間は四畳半に蟄居ちっきょして小言はただの一度も聞いた事がない。喧嘩もせずに済んだ。おれの生涯のうちでは比較的呑気ひかくてきのんきな時節であった。しかしこうなると四畳半も引き払わなければならん。生れてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一所に鎌倉かまくらへ遠足した時ばかりである。今度は鎌倉どころではない。大変な遠くへ行かねばならぬ。地図で見ると海浜で針の先ほど小さく見える。どうせ碌な所ではあるまい。どんな町で、どんな人が住んでるか分らん。分らんでも困らない。心配にはならぬ。ただ行くばかりである。もっとも少々面倒臭い。
 家をたたんでからも清の所へは折々行った。清の甥というのは存外結構な人である。おれがくたびに、りさえすれば、何くれと款待もてなしてくれた。清はおれを前へ置いて、いろいろおれの自慢じまんを甥に聞かせた。今に学校を卒業すると麹町辺へ屋敷を買って役所へ通うのだなどと吹聴ふいちょうした事もある。独りでめて一人ひとり喋舌しゃべるから、こっちはまって顔を赤くした。それも一度や二度ではない。折々おれが小さい時寝小便をした事まで持ち出すには閉口した。甥は何と思って清の自慢を聞いていたか分らぬ。ただ清は昔風むかしふうの女だから、自分とおれの関係を封建ほうけん時代の主従しゅじゅうのように考えていた。自分の主人なら甥のためにも主人に相違ないと合点がてんしたものらしい。甥こそいいつらの皮だ。
 いよいよ約束が極まって、もう立つと云う三日前に清をたずねたら、北向きの三畳に風邪かぜを引いて寝ていた。おれの来たのを見て起き直るが早いか、っちゃんいつうちをお持ちなさいますと聞いた。卒業さえすれば金が自然とポッケットの中に湧いて来ると思っている。そんなにえらい人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのはいよいよ馬鹿気ている。おれは単簡に当分うちは持たない。田舎へ行くんだと云ったら、非常に失望した容子ようすで、胡麻塩ごましおびんの乱れをしきりにでた。あまり気の毒だから「く事は行くがじき帰る。来年の夏休みにはきっと帰る」となぐさめてやった。それでも妙な顔をしているから「何を見やげに買って来てやろう、何が欲しい」と聞いてみたら「越後えちご笹飴ささあめが食べたい」と云った。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違う。「おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ」と云って聞かしたら「そんなら、どっちの見当です」と聞き返した。「西の方だよ」と云うと「箱根はこねのさきですか手前ですか」と問う。随分持てあました。
 出立の日には朝から来て、いろいろ世話をやいた。来る途中とちゅう小間物屋で買って来た歯磨はみがき楊子ようじ手拭てぬぐいをズックの革鞄かばんに入れてくれた。そんな物は入らないと云ってもなかなか承知しない。車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません。随分ご機嫌きげんよう」と小さな声で云った。目になみだ一杯いっぱいたまっている。おれは泣かなかった。しかしもう少しで泣くところであった。汽車がよっぽど動き出してから、もう大丈夫だいしょうぶだろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。何だか大変小さく見えた。
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