「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと小供(こども)の時からの仲好(なかよし)でした。小供の時からといえば断らないでも解っているでしょう、二人には同郷の縁故があったのです。Kは真宗(しんしゅう)の坊さんの子でした。もっとも長男ではありません、次男でした。それである医者の所へ養子にやられたのです。私の生れた地方は大変本願寺派(ほんがんじは)の勢力の強い所でしたから、真宗の坊さんは他(ほか)のものに比べると、物質的に割が好かったようです。一例を挙げると、もし坊さんに女の子があって、その女の子が年頃(としごろ)になったとすると、檀家(だんか)のものが相談して、どこか適当な所へ嫁にやってくれます。無論費用は坊さんの懐(ふところ)から出るのではありません。そんな訳で真宗寺(しんしゅうでら)は大抵有福(ゆうふく)でした。
Kの生れた家も相応に暮らしていたのです。しかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどうか知りません。また修業に出られる便宜があるので、養子の相談が纏(まと)まったものかどうか、そこも私には分りません。とにかくKは医者の家(うち)へ養子に行ったのです。それは私たちがまだ中学にいる時の事でした。私は教場(きょうじょう)で先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に変っていたので驚いたのを今でも記憶しています。
Kの養子先もかなりな財産家でした。Kはそこから学資を貰(もら)って東京へ出て来たのです。出て来たのは私といっしょでなかったけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました。その時分は一つ室(へや)によく二人も三人も机を並べて寝起(ねお)きしたものです。Kと私も二人で同じ間(ま)にいました。山で生捕(いけど)られた動物が、檻(おり)の中で抱き合いながら、外を睨(にら)めるようなものでしたろう。二人は東京と東京の人を畏(おそ)れました。それでいて六畳の間(ま)の中では、天下を睥睨(へいげい)するような事をいっていたのです。
しかし我々は真面目(まじめ)でした。我々は実際偉くなるつもりでいたのです。ことにKは強かったのです。寺に生れた彼は、常に精進(しょうじん)という言葉を使いました。そうして彼の行為動作は悉(ことごと)くこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。私は心のうちで常にKを畏敬(いけい)していました。
Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました。これは彼の父の感化なのか、または自分の生れた家、すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、解(わか)りません。ともかくも彼は普通の坊さんよりは遥(はる)かに坊さんらしい性格をもっていたように見受けられます。元来Kの養家(ようか)では彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。しかるに頑固な彼は医者にはならない決心をもって、東京へ出て来たのです。私は彼に向って、それでは養父母を欺(あざむ)くと同じ事ではないかと詰(なじ)りました。大胆な彼はそうだと答えるのです。道のためなら、そのくらいの事をしても構わないというのです。その時彼の用いた道という言葉は、おそらく彼にもよく解っていなかったでしょう。私は無論解ったとはいえません。しかし年の若い私たちには、この漠然(ばくぜん)とした言葉が尊(たっ)とく響いたのです。よし解らないにしても気高(けだか)い心持に支配されて、そちらの方へ動いて行こうとする意気組(いきぐみ)に卑(いや)しいところの見えるはずはありません。私はKの説に賛成しました。私の同意がKにとってどのくらい有力であったか、それは私も知りません。一図(いちず)な彼は、たとい私がいくら反対しようとも、やはり自分の思い通りを貫いたに違いなかろうとは察せられます。しかし万一の場合、賛成の声援を与えた私に、多少の責任ができてくるぐらいの事は、子供ながら私はよく承知していたつもりです。よしその時にそれだけの覚悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起った場合には、私に割り当てられただけの責任は、私の方で帯びるのが至当(しとう)になるくらいな語気で私は賛成したのです。