「私は蔭(かげ)へ廻(まわ)って、奥さんとお嬢さんに、なるべくKと話をするように頼みました。私は彼のこれまで通って来た無言生活が彼に祟(たた)っているのだろうと信じたからです。使わない鉄が腐るように、彼の心には錆(さび)が出ていたとしか、私には思われなかったのです。
奥さんは取り付き把(は)のない人だといって笑っていました。お嬢さんはまたわざわざその例を挙げて私に説明して聞かせるのです。火鉢に火があるかと尋ねると、Kはないと答えるそうです。では持って来(き)ようというと、要(い)らないと断るそうです。寒くはないかと聞くと、寒いけれども要らないんだといったぎり応対をしないのだそうです。私はただ苦笑している訳にもゆきません。気の毒だから、何とかいってその場を取り繕(つくろ)っておかなければ済まなくなります。もっともそれは春の事ですから、強(し)いて火にあたる必要もなかったのですが、これでは取り付き把がないといわれるのも無理はないと思いました。
それで私はなるべく、自分が中心になって、女二人とKとの連絡をはかるように力(つと)めました。Kと私が話している所へ家(うち)の人を呼ぶとか、または家の人と私が一つ室(へや)に落ち合った所へ、Kを引っ張り出すとか、どっちでもその場合に応じた方法をとって、彼らを接近させようとしたのです。もちろんKはそれをあまり好みませんでした。ある時はふいと起(た)って室の外へ出ました。またある時はいくら呼んでもなかなか出て来ませんでした。Kはあんな無駄話(むだばなし)をしてどこが面白いというのです。私はただ笑っていました。しかし心の中(うち)では、Kがそのために私を軽蔑(けいべつ)していることがよく解(わか)りました。
私はある意味から見て実際彼の軽蔑に価(あたい)していたかも知れません。彼の眼の着け所は私より遥(はる)かに高いところにあったともいわれるでしょう。私もそれを否(いな)みはしません。しかし眼だけ高くって、外(ほか)が釣り合わないのは手もなく不具(かたわ)です。私は何を措(お)いても、この際彼を人間らしくするのが専一だと考えたのです。いくら彼の頭が偉い人の影像(イメジ)で埋(うず)まっていても、彼自身が偉くなってゆかない以上は、何の役にも立たないという事を発見したのです。私は彼を人間らしくする第一の手段として、まず異性の傍(そば)に彼を坐(すわ)らせる方法を講じたのです。そうしてそこから出る空気に彼を曝(さら)した上、錆(さ)び付きかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。
この試みは次第に成功しました。初めのうち融合しにくいように見えたものが、段々一つに纏(まと)まって来出(きだ)しました。彼は自分以外に世界のある事を少しずつ悟ってゆくようでした。彼はある日私に向って、女はそう軽蔑(けいべつ)すべきものでないというような事をいいました。Kははじめ女からも、私同様の知識と学問を要求していたらしいのです。そうしてそれが見付からないと、すぐ軽蔑の念を生じたものと思われます。今までの彼は、性によって立場を変える事を知らずに、同じ視線ですべての男女(なんにょ)を一様に観察していたのです。私は彼に、もし我ら二人だけが男同志で永久に話を交換しているならば、二人はただ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだろうといいました。彼はもっともだと答えました。私はその時お嬢さんの事で、多少夢中になっている頃(ころ)でしたから、自然そんな言葉も使うようになったのでしょう。しかし裏面の消息は彼には一口(ひとくち)も打ち明けませんでした。
今まで書物で城壁をきずいてその中に立て籠(こも)っていたようなKの心が、段々打ち解けて来るのを見ているのは、私に取って何よりも愉快でした。私は最初からそうした目的で事をやり出したのですから、自分の成功に伴う喜悦を感ぜずにはいられなかったのです。私は本人にいわない代りに、奥さんとお嬢さんに自分の思った通りを話しました。二人も満足の様子でした。