personal のものが universal の者でなくとも、百人なり二百人なりの読者を得たとき、その読者の頭をつなぐ共通なものが、なくてはならぬ。このものが一つの law である。
文芸は law によって govern されてはいけない。personal である。free である。しからばまるで、無茶なものかというと、決してさようではない。かようにあなた方の出発点と、吾々文芸家の出発点とは違っている。
そのものの性質よりいえば、吾々の方のものは personal のもので、作物を見て、作った人に思い及ぶ、電車の
これほどまでに芸術とか文芸とかいうものは personal である。personal であるから自己に重きを置く。主がなくなったら personal のなくなるのはあたり前だけれども、自己がなくなれば、芸術はだめである。
あなた方が
ところがここに腕の人でもなく頭の人でもない一種の人がある。資本家というものでこの capitalist になると腕も人間も大切でなく金が大切なのである。capitalist から金をとり上ぐればだめである、何にもできない。同様にあなた方から腕をとり上げても
あなた方の方では技術と自然との間に何らの矛盾もないが、私どもの方には矛盾もある。すなわちごまかしがきくのです、悲しくないのに泣いたり、
一口にていえば、文芸家の仕事の本体すなわち essence は人間であって、他のものは附属品装飾品である。
この見地より世の中を見わたせば面白いものです。私一人かも知れませんが、世の中は自分を中心としなければいけない。私は親が生んだので、親はまたその親が、生んだのです。何も木の股からではない。人間は自分を通じて先祖を後世に伝える方便として生きてるのか、または自分その者を後世に伝えるために生きてるのか、どっちでもいいけれどもとりようでは二様にとれる。親が死んだからその代理に生きてるともとれるし、そうでなくて己は自分が生きているんで、親はこのおれを生むための方便だ、自分が消えると気の毒だから、子に伝えてやる、という事に考えてもさしつかえない。この論法からいうと芸術家が昔の芸術を後世に伝えるために生きているというのも、不見識ではあるがやっぱり必要でしょう。ことに旧芝居やお能なんかはいい例です。絵画にもそれがある。私は狩野元信のために生きているので、決して私のためには生きてるのではないと看板をかけてる人もたくさんある。――身を殺して仁をなすのでしょうが、personality の論法で行くと、これはあてはまらないですね。こんな人はとりのけて、ほんとに自覚したらどうだろう、すなわち personality より出立しようとする。狩野のために生きるのをよして自分のために生きようとする。まったく同じ事は決して再び起らない。scientific ではどうか知らないけれども精神界ではまったく同じものが二つは来ないゆえに全然旧には
導体的の文芸家美術家も、必要かも知れないが、人間の本分として、自覚しなければならない。このところが大切なところで充分に説明しなければいけないんですが、今日は時間がないからこれで止めます。
私のいうた事はあなた方と私どもの職業の
〔一九一四(大正三)年一月十七日、東京高等工業学校において〕