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おはなし(2)

时间: 2020-11-30    进入日语论坛
核心提示: しからば我々の文芸は法則を全然無視してるかというと、そうでもない。ベルグソンの哲学には一種の法則みたいなのがある。フラ
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  しからば我々の文芸は法則を全然無視してるかというと、そうでもない。ベルグソンの哲学には一種の法則みたいなのがある。フランスでは、ベルグソンを立場として、フランスの文芸が近頃出てきている。吾々の方でも sex の問題とか naturalism とか世間に知れわたった法則等から出立しゅったつし得るもの、その abstract の輪郭をえがいてその中につめこんだのでは生きて来ない。内から発生した事にならない、こしらえたものになる。この方面からいえば、abstract からは出立されないのです。しからば文芸者の造ったものから一つの法則を reduce することはできないかというとできる。それは作者が、天然自然に書いたものを他の人が見てそれに philosophical の解釈を与えたときに、その作物の中からつかみ出されるというので始めから法則をつかまえて、それから肉をつけるというのではありません。吾々の方でも時には法則が必要です。なぜに必要であるかといえばこれがために作物の depth が出てくるという問題になるからである。あなた方の法則は universal のものであるが吾々のものは personality の奥に law があるのです。というのはすでに出来た作物を読む人々の頭の間をつなぐ共通のあるものがあった時そこに abstract の law が存在しているのです。
 personal のものが universal の者でなくとも、百人なり二百人なりの読者を得たとき、その読者の頭をつなぐ共通なものが、なくてはならぬ。このものが一つの law である。
 文芸は law によって govern されてはいけない。personal である。free である。しからばまるで、無茶なものかというと、決してさようではない。かようにあなた方の出発点と、吾々文芸家の出発点とは違っている。
 そのものの性質よりいえば、吾々の方のものは personal のもので、作物を見て、作った人に思い及ぶ、電車の軌道きどうは誰が引いたかと考うる必要はないが、芸術家のものであるとき、誰が作ったということがじき問題になる。したがって製作品に対する情緒がこれにうつって行って作物に対する好厭の念が、作家にうつって行く。なおひろがって作家自身の好厭となり結局道徳的の問題となる。それゆえ作物から当然得べき感情が作家に及ぼして、しまいには justice という事がなくなって贔負ひいきというものができる。芸人にはこの贔負が特にはなはだしい。相撲すもうなんかそれです。私の友人に相撲のすきな人がある、この人は勝った方がすきだと申します。この人なんか正義な人で、公平で、決して贔負ではない。贔負になるとこんな事ができない。かく芸を離れて当人になってくるのは角力すもうか役者に多い。作物になるとさほどでもないようにも見える。
 これほどまでに芸術とか文芸とかいうものは personal である。personal であるから自己に重きを置く。主がなくなったら personal のなくなるのはあたり前だけれども、自己がなくなれば、芸術はだめである。
 あなた方がたっとぶことは、おのれでなくして腕である。腕さえあれば能事のうじおわれりというてもよい。工場では人間はいらないほどあってもその人間は機械の一部分のようなものである。mechanical に働く機械よりも、巧妙に働く腕が必要である。が吾々の方は人間であるという事が大切なので、社会上よりいうときは、お互に社会の一員であるけれども吾々の方は人間という事が大事になる。
 ところがここに腕の人でもなく頭の人でもない一種の人がある。資本家というものでこの capitalist になると腕も人間も大切でなく金が大切なのである。capitalist から金をとり上ぐればだめである、何にもできない。同様にあなた方から腕をとり上げても駄目だめである。我々は腕も金もとり上げられてもいいが、人間をとり上げられたらそれこそ大変だ。
 あなた方の方では技術と自然との間に何らの矛盾もないが、私どもの方には矛盾もある。すなわちごまかしがきくのです、悲しくないのに泣いたり、たのしくもないのに笑ったり、腹も立たないのにおこったり、こんな講壇の上などに立ってあなた方から偉く見られようとしたりするので、これはある程度まで成功します。これは一種の art である、art と人間の間には距離を生じて矛盾を生じやすい。あなた方にも人格にない art をろうしている事もたくさんある、すなわちねむいのに、ねむくないようなふりをする義理もありましょうがね。かく art は恐ろしい。吾々は art は二の次で人間が第一なのです。孔子様でなければ人格がない、なんていうのじゃない、失格といったってえらいという事でもなければ、偉くないという事でもない、個人の思想なり観念なりを中心とするのである。
 一口にていえば、文芸家の仕事の本体すなわち essence は人間であって、他のものは附属品装飾品である。
 この見地より世の中を見わたせば面白いものです。私一人かも知れませんが、世の中は自分を中心としなければいけない。私は親が生んだので、親はまたその親が、生んだのです。何も木の股からではない。人間は自分を通じて先祖を後世に伝える方便として生きてるのか、または自分その者を後世に伝えるために生きてるのか、どっちでもいいけれどもとりようでは二様にとれる。親が死んだからその代理に生きてるともとれるし、そうでなくて己は自分が生きているんで、親はこのおれを生むための方便だ、自分が消えると気の毒だから、子に伝えてやる、という事に考えてもさしつかえない。この論法からいうと芸術家が昔の芸術を後世に伝えるために生きているというのも、不見識ではあるがやっぱり必要でしょう。ことに旧芝居やお能なんかはいい例です。絵画にもそれがある。私は狩野元信のために生きているので、決して私のためには生きてるのではないと看板をかけてる人もたくさんある。――身を殺して仁をなすのでしょうが、personality の論法で行くと、これはあてはまらないですね。こんな人はとりのけて、ほんとに自覚したらどうだろう、すなわち personality より出立しようとする。狩野のために生きるのをよして自分のために生きようとする。まったく同じ事は決して再び起らない。scientific ではどうか知らないけれども精神界ではまったく同じものが二つは来ないゆえに全然旧にはかえらない。なお他の一つは旧にかえるのではなく新らしい departure をする。これらによって essential な personality を発揮する事ができる。
 導体的の文芸家美術家も、必要かも知れないが、人間の本分として、自覚しなければならない。このところが大切なところで充分に説明しなければいけないんですが、今日は時間がないからこれで止めます。
 私のいうた事はあなた方と私どもの職業のちがいから私どもの方をくわしくいうたのだけれどもあなた方の方もある程度までは応用がききます、あなた方の職業の方面において、幾分か参考になる事があるでしょう。もっとも文芸部の会ですから応用がきかなくっても、威張いばってそういう権利があります。しかし個人としてなり職業としてなり、ご参考になれば非常に私はうれしい。――それだけです。
〔一九一四(大正三)年一月十七日、東京高等工業学校において〕
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